蜀の諸葛亮の活躍を語るうえで、「南蛮制圧戦」は欠かせません。これは諸葛亮が北伐を行う前に後方の憂いをなくすため、そして財政基盤を安定させるために行った戦いです。
しかし、この「南蛮」とは現代中国においてどのあたりを指すのでしょうか? 小説ではとんでもなく野蛮な人々が住む地域のように書かれていますが、実際はどうなのでしょうか。今回の記事では探ってみます。
この記事の目次
正史「三国志」では「南蛮」とは言っていない?そもそも「南蛮」とは?
実は歴史書である正史「三国志」では「南蛮」とは言っていません。小説「三国志演義」や4世紀に編纂された地理書「華陽国志」で言及されているのです。
ちなみに「南蛮」とは中国南方の漢民族と違う民族を指した「蔑称」で馬鹿にしたような言い方で、また失礼な呼び名であり現在は殆ど使用されていません。「三国志演義」では諸葛亮、蜀の正義の面を強調するために「南蛮」の表現を使用したと考えられます。
ちなみに北部の異民族は「北狄」、西部は「西戎」、東部は「東夷」と呼ばれ、「南蛮」と合わせて「四夷」と中国の王朝では言われていました。
「南蛮」とは現在中国でいえばどこなのか?
正史「三国志」等では「南蛮」は「南中」と呼ばれ、蜀が支配していた益州の南部を指します。これは当時「益州郡」のちに諸葛亮が「建寧郡」と改めた地域です。現在中国で言うと、「雲南省昭通市、曲靖市」付近を指し、さらにミャンマー北部までその範囲が広がる説もあります。
小説「三国志演義」ではうっそうとしたジャングルが広がる熱帯地域のような書かれ方ですが、実際も雨季と乾季があり、一年中温暖な地域だそうです。
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南中(南蛮)に住む異民族とは?
南中に住む人々は漢民族とは違う民族だったようです。その民族とは「イ族」と呼ばれた人々で、現在中国でも1000万人ほどが雲南省中心に暮らしています。「イ文字」と呼ばれる特別な文字文化があり、また地域によって多くの方言もあります。産業の中心は農業と牧畜でトウモロコシや米、ヤギや豚などを生産しています。
「火祭り(タイマツ祭り」という豊作を祈る祭りが民族の大きな祭りで、旧暦の6月24日から26日にかけて行われています。
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「三国志」に登場する南中(南蛮)の人物たち
小説「三国志演義」では蛮族の頭領のように描かれている孟獲ですが、実際は南中地域に一定の勢力を持っていた漢人の豪族でした。彼は蜀に反乱を起こし、南征の軍を起こした諸葛亮と戦う事になります。
しかし7度敗れるも7度放たれ、その寛容さに心を打たれた孟獲は蜀に従うようになったといいます。これが「七縦七擒」という用語の基になりました。
- 李恢
李恢は建寧郡の出身で、初め劉璋、のち劉備に仕えました。南中地域の出身で地の利があることから、諸葛亮の南征に同行し、少ない兵力ながら策略によって南人たちを戦いで破っています。
また、馬超を蜀軍に引き入れるために説得した人物としても知られています。
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