この記事の目次
5.蜀と魏の争いに加わる「羌」
氐族の更に北部に居住していた民族です。無弋爰剣と言われる人物が始祖とされ、初めは匈奴と組んでいたものの、後に漢の傘下に入ります。しかし、漢の勢力が衰えると度々反乱を起こし、そのたびに討伐の対象になることになりました。
その羌族の討伐では「董卓」も戦功をあげ、中央での出世につなげています。曹操と対立した馬超の父「馬騰」は母親が羌族であり、彼らと組んで独自の勢力を確立しました。
後に魏と蜀が建国されると羌族の支配地域は彼らの争いの場となり、魏と蜀は羌族を利用しながら戦う事になります。その後はチンギスハーンに滅ぼされたとされますが、現在中国でも羌族の末裔は「チャン族」としていまも生活しています。
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6.呉に度々討伐の対象にされる「山越」
現在の江蘇省、長江の南に住んでいた民族です。山越は「百越」と言われる長江より南に住んでいた民族の一つで、何度も孫呉に反乱を起こしていました。
「厳虎」という山越の頭目は大きな勢力を築き、孫策に討伐されることになりました。その後も孫呉は完全に山越を討伐することは出来ませんでしたが、山越の兵士を軍に組み込むなど、関係は深かったと考えられます。
7.諸葛亮が目を付けた「西南夷」
現在の四川省南部から雲南省にかけて住んでいた異民族の総称が「西南夷」です。雟、邛、筰など実に様々な部族に分かれていました。国を作ったばかりで財政や兵士が不足した「蜀」はこの地域に目をつけ、彼らと戦い、服属させることによって国の安定を図りました。
「高定」は叟族の王で諸葛亮と戦い、殺されています。また、漢人の「孟獲」が異民族たちを組み、蜀に反乱を起こし鎮圧されています。孟獲は小説「三国志演義」では異民族の王になっていますが、実際は違うようです。この異民族の人々は現在中国の「イ族」と言われています。
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三国志ライターみうらの独り言
中国には現在でも実にたくさんの民族が暮らしています。「三国志」の時代においては「漢人」が主役ですが、他の民族もかなりの人数が住んでいたと考えられますね。各民族は言葉が違うようで、どのようにしてコミュニケーションをとっていたのか気になりますね。
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