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司馬昭の関心事は禅譲に
263年2月、皇帝であった曹奐は司馬昭に晋公、相国、九錫を与える詔勅を出します。これは5度目でしたが、司馬昭はこれも辞退し、同年5月に計画していた蜀漢討伐戦を実行。司馬昭は、かつて魏王であった曹操が最後まで奪い返せなかった漢中奪還という偉業を成せば、晋公となること、その先にある禅譲も世論が認めると考えたのでしょう。
ただ、前述したように益州への進軍は、鍾会以外からの賛同を得られませんでした。特に姜維を牽制する役割を担う鄧艾を説得しなければ作戦は決行できないので、司馬昭は腹心の師纂を鄧艾の司馬として送り込み説得をさせています。
そうして開始された討伐戦は前述のように、司馬昭も予想外の早さで目的を達成。作戦開始からわずか数カ月後の263年10月に司馬昭は晋公となりました。まだ、劉禅が降伏していないこの時期に晋公に就いていることからも、司馬昭の目的が漢中と成都どちらであったかが分かります。ただ、蜀漢の弱体化が著しいことから、作戦は中断せずにそのまま進軍をさせます。
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鄧艾の失脚と鍾会の反乱
司馬昭としては、リスクが大きくならない範囲であれば、そのまま進軍を続けさせて危うくなったら撤退させる考えだったはずです。そのため、鄧艾が奇襲作戦を提案した際には、方針に沿わないので却下しています。無駄な犠牲やリスクを追ってまで、成都を落とそうとは考えていなかったからです。
しかし、命令を無視した鄧艾は奇襲を成功させ、劉禅を降伏させます。その結果、鍾会よりも早く成都へ入城。略奪行為などを禁じ、蜀の民の信頼を獲得します。また、劉禅を驃騎将軍に任じる、旧蜀漢の臣下に魏の官位を授けるなど越権行為を働きつつ、さらに呉への進軍を計画。
禅譲への道筋が見えてきた司馬昭にとって、鄧艾の行動は余計でした。晉公になった司馬昭は、外に目を向けるよりも内側を固めて王位に進み、最後のステップである即位に向けた動きを進めたかったはずです。
これについても実際、足がかりがすでにできていたのでしょう。曹操が3年かけて公から王になったのに対し、司馬昭は約半年後の264年3月に晋王にまで上っています。
しかし、ここで処遇に不満を持っていた鍾会はこれ幸いと、持節を持つ衛瓘に鄧艾の監査を依頼。衛瓘は鄧艾の行いが反逆行為に当たると判断し、司馬昭に報告。
そして、鄧艾は更迭され洛陽へと連行されることになります。邪魔だった鄧艾がいなくなると、鍾会は姜維ら降将を従えて成都へ入城。この時すでに姜維は鍾会の野心を見抜いていました。さらに、劉禅も太子である劉璿も存命であり魏軍は内部から崩壊しています。
姜維は鍾会を利用して邪魔魏軍を撤退させれば、蜀漢の復興が可能と考えました。鍾会もまた恩賞への不満や最大の邪魔者だった鄧艾を排除したことで、本格的に反乱へ舵を切り始めます。
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司馬昭の対応が成都大騒擾を招いた
鍾会らが出陣する前に邵悌という人物が司馬昭に対して、鍾会は謀反を起こす可能性があると進言しました。しかし、司馬昭は魏兵が早く郷里に帰りたいこと、蜀兵は降伏したばかりであることから、反乱を起こしても成功しないと一蹴。
しかし、司馬昭は鄧艾が更迭されたあたりで、鍾会の動きを警戒して長安へ進軍をしています。おそらく、司馬昭は晋公としての権威を保つこと、そして次なる王位へと進むために、鄧艾や鍾会のような反乱分子をいち早く除きたかったのでしょう。
そのためか、司馬昭は威信を示すために、長安に行幸していた曹奐を奉戴して進軍するパフォーマンスを披露。加えて、懐刀の賈充を関中・隴右の都督として漢中に向けて派遣しています。そんな中で反乱の引き金となったが、司馬昭が長安へ進軍している旨を鍾会に手紙で伝えたことです。
それで鍾会の叛意を削ごうと考えたのでしょうが、鍾会は逆に焦って反乱を決行してしまいます。鍾会は魏軍の諸将を捕らえることに成功しますが、決断力がなかったために姜維の進言を汲んで殺すことはできませんでした。
しかし、鍾会が捕らえた将軍たちを殺そうとしている事が漏れてしまい、将軍たちは内通者によって開放され、成都を脱出。成都城外にいた諸軍と合流した将軍たちは鍾会を討つために準備を開始します。
反乱から3日後の264年1月18日に成都に攻撃を仕掛けると、城内は激しい混乱状態に。まとまった兵をもたない鍾会、姜維、そして反乱に加わった張翼ら旧蜀将は皆殺しにされました。
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三国志ライターTKのひとりごと
司馬昭は本来、司馬懿や司馬師の跡を継げる立場にはありませんでした。ただ、司馬師には男児がいなかったために、司馬昭の次男だった司馬攸を養子に出します。
司馬師は255年に亡くなりますが、後を継ぐはずだった司馬攸が9歳と幼いことから、司馬昭が後を継ぎました。急にお鉢が回ってきた司馬昭でしたが、父と兄が作った基盤によって体制はほぼ盤石。
後は世論を見ながら禅譲へと進めるだけでしたが、急に開けた即位の道筋を急ぐあまり鄧艾や鍾会らの考えや思惑に目が向かず、結果的に成都大騒擾という無用な戦果を招いてしまいました。
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