孫策・孫権の二代に仕えた呉の名将として、太史慈は有名な武将です。今回の記事では、そんな太史慈の生い立ちとその生涯、そしてその強さに迫っていきたいと思います。なお、今回の記事は概ね、陳寿の『三国志』(いわゆる正史三国志)に基づいています。
太史慈の生い立ちと青年時代
呉の武将として有名な太史慈ですが、実は呉の生まれではありません。彼の故郷は青州東莱郡です。そして、若かりし頃の太史慈は故郷の東莱郡で役人をやっていたといわれています。なお、郡の役人時代の太史慈には面白いエピソードが残っています。
ある時、東莱郡と青州がもめ事を生じたとき、太史慈は郡の使者として、中央政府への上奏文を持って首都洛陽に派遣されます。当時の決まりでは、上奏文は早い者勝ちで、先に中央に上奏文を出した方が有利な裁定を下されることが往々にしてありました。
そこで、太史慈は一計を案じ、身分を隠して州の使者を訪ねると、「上奏文を出すには、朝廷に入るための通行証が必要だ。通行証をもらうには上奏文を確認する必要があるから見せてくれ」と言いました。
これを信じた州の使者は太史慈に上奏文を渡しますが、太史慈はすぐに刀を抜いてこの上奏文を切り裂いてしまいました。これを見て州の使者は激怒しますが、太史慈は「こうなってはどうしようもない。あなたは州の使者の役目を果たせず、私も騒ぎを起こしたということでお尋ね者だ。あなたは私と一緒に逃げるしかない。」と州の使者を説得し、共に逃亡します。
しかし、逃亡している最中に太史慈は州の使者を巧みにまいてしまい、洛陽に戻って東莱郡からの上奏文を朝廷に提出してしまいます。このように、州の使者を出し抜いた太史慈の活躍によって、東莱郡は青州とのもめ事を有利に進めたのでした。
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孔融との友情
計略を持って青州の使者を出し抜き、任務を果たした太史慈ですが、これを知った青州の政府は激怒し、太史慈は青州に住みづらくなって幽州遼東郡に逃亡します。
この時、太史慈の母親は東莱郡に残っていましたが、その面倒を見たのは北海郡太守の孔融でした。
孔融は孔子の子孫として有名な人物で、当代きっての名士としてその名は知られていました。孔融が太史慈の母の面倒を見たことがきっかけで、太史慈と孔融との間には友情が芽生えることとなります。
その後も北海郡を治めていた孔融でしたが、192年(初平3年)に黄巾党の残党が北海郡を襲撃する事件が起こります。この時、孔融は敵軍に包囲されて絶体絶命の危機に陥りました。そこで登場したのが太史慈でした。太史慈はかつての恩を忘れておらず、いまこそ恩を返す時だと立ち上がったのです。
太史慈は救援を要請する使者を買って出ますが、周囲は敵の大軍に包囲されており、脱出は困難です。
そこで太史慈は一計を案じます。弓の名手として知られた太史慈は、毎日城外で弓の練習をはじめます。初めは物珍しそうに見ていた敵軍ですが、次第に弓の練習をする太史慈を気にも留めなくなります。
そして、敵の注意が散漫になった隙をついて一気に太史慈は城を脱出し、平原郡の劉備の下に駆け付けて救援を要請し、劉備率いる援軍の助けもあって、敵を討ち破ることができたのです。これによって、太史慈と孔融の間の友情はさらに堅いものとなりました。
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孫策への仕官
その後、太史慈は195年(興平2年)に揚州刺史の劉繇の下を訪れ、仕官しようとします。しかし、劉繇は太史慈を重用しませんでした。そんな中、劉繇が孫策に攻められます。この時、太史慈は、単騎で孫策軍の偵察をしていましたが、偶然にも同じく偵察をしていた孫策とその一行と出会います。
これを幸いとばかりに、太史慈は孫策に一騎打ちを挑みますが、孫策の部下が割って入り、一騎打ちは引き分けになります。その後、劉繇は孫策に敗れて逃亡し、太史慈は主を失いますが、あくまでも太史慈は孫策に抵抗します。
しかし、奮戦もむなしく太史慈は孫策に捕らえられます。
孫策は太史慈の武勇を高く評価し、捕らえた太史慈を解放して将に取り立てます。この時、太史慈は劉繇軍の残党をかき集めて孫策に従わせると提案し、孫策もそれを信用して太史慈を派遣します。
孫策の周囲は、逃げるための太史慈の口実だと非難しますが、孫策は太史慈を信頼しており、太史慈もしっかりと信頼にこたえ、劉繇軍の残党を孫策に帰順させました。
その後の太史慈は、孫策・孫権の二代に仕え、主に荊州の劉表に対する備えとして荊州との境界を守りつづけ、赤壁の戦いの前の206年(建安11年)に死去しました。
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太史慈の強さ
以上、太史慈の生涯を見てきました。太史慈の経歴を見る限り、太史慈という人物は武勇というよりは優れた計略によって功績を挙げることが多いようにも思えます。
そして、何よりも太史慈の強みはその義理堅さです。母親の面倒を見てくれた孔融に恩返しするために命を張り、主の劉?に忠義立てして孫策と最後まで戦い、自分を評価してくれた孫策の信頼と期待にも応えたように、こうした信義というものが、太史慈という人物の評価の高さを後押ししているのではないでしょうか。
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三国志ライター Alst49の独り言
いかがだったでしょうか。太史慈は孫策との一騎打ちのイメージが強く、武勇一辺倒の猛将と思われがちですが、実際には知略に長けており、信義を重んじる義の武将であったのですね。
儒教道徳を重んじるかつての中国の価値観では、こういった人物はとても評価される傾向にあります。だからこそ、太史慈という人物は歴史にその名を残しているのでしょう。
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