合肥の戦いと言えば張遼がとんでもないリアルタイム三国無双をやってしまい、孫権は張遼が病気になってもこれを恐れ、しまいには呉の赤ちゃんの夜泣き対策にまで張遼の名が使われるようになった伝説の戦い。
しかしそんな張遼大暴れエピソードに隠れてちょっといい話として有名なのが、張遼、楽進、李典が不仲であるにも関わらず協力して呉に当たったということ。今回はこのエピソードから、李典の性格を振り返ってみましょう。
不仲であるにも関わらず
それは215年のこと。呉の大軍が迫る合肥の地において、ここを任されたのは張遼、李典、楽進。圧倒的な兵力差、しかも同僚とは不仲であるという曹操さま人事どうなってんの?と言いたくなる状況の中、国家の大事に私情は挟まないと三人は協力することを誓い合います。
この後、とんでもない兵力差を巻き返しての反撃により孫権のメンタルに大ダメージを負わせることになるのは皆さんも良くご存知の話。
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不仲について
さて三人の不仲についてですが、実は張遼と楽進の不仲については良く分かってはいません。とは言え張遼は元々は呂布軍の武将、楽進は叩き上げ、李典は叔父から三代曹操に仕えているという立場の関係から色々と揉めたのかもしれませんね。しかし、李典と張遼の不仲についてはこの元呂布軍、というのが理由の一つです。
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李乾の死
李典は元々叔父であった李乾が曹操に従うようになったという経緯があります。この李乾、呂布のエン州反乱の際に、呂布の配下武将に謀反を持ちかけられて断り、殺害されてしまいました。この配下武将は張遼ではありません。しかし張遼は元は呂布の部下であるので、李典からすれば叔父の仇の一人でもあるのです。
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李乾が殺害された年月
これは当時の儒教的観点から言っても許してはならない関係でもありました。因みに李乾が殺害されたのは194年。合肥が215年のことですから既に20年近く経っています。しかし20年という年月は生きていれば長くとも、仇を忘れるには決して短くはない時間でもあるのです。
龐徳の逸話:仇敵は忘れじ
それが良く分かるのが、ホウ徳の子のエピソード。かつて樊城の戦いで関羽に討ち取られたホウ徳。その子は蜀の滅亡時に関羽の子孫を探して全員殺してしまったという話があります。
どれだけ時間が経っても一族の仇というのは忘れず、相手が死んでいてたとしても墓を暴いてでも復讐を遂げる……それが当時の価値観でもあったのでした。決して李典が執念深い訳ではありません。
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