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蜀征伐を決意、しかし
230年、連年の北伐により蜀は衰退していると予想して曹真は、曹叡に蜀の征伐を進言します。この案は採用され、曹真は司馬懿と共に二手に分かれて蜀への侵攻を開始します。しかし、30日以上も長雨が降り続き、桟道(崖に杭を打ち、板を乗せた道)は崩壊し、水害も発生しました。やむを得ず魏軍は撤退し、曹真の蜀征伐は失敗に終わります。
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曹真の死
蜀征伐失敗の翌年、諸葛亮は再び北伐の軍を起こします。その陣中で曹真は病に倒れ、洛陽に帰還します。皇帝曹叡は自ら曹真を見舞うなどしましたが、病状は好転せず、231年に曹真は亡くなります。これ以後、諸葛亮との対決は司馬懿に任せられることになるのです。
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「三国志演義」での曹真の死
正史では陣中で病を発し、亡くなった曹真ですが、小説「三国志演義」ではアレンジがなされています。まず、正史で諸葛亮の北伐に主に対応したのは曹真でしたが、「三国志演義」ではほとんどが司馬懿の仕事になっています。これは司馬懿と諸葛亮をライバルにするためのアレンジなのでしょう。
また、蜀征伐で撤退した際には曹真は諸葛亮に追撃され、策によって命の危機にさらされます。そこで司馬懿に救われるものの、曹真は病に倒れてしまうのです。
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諸葛亮の手紙
曹真が倒れたことを知った諸葛亮は曹真に手紙を送ります。
しかしその内容は
「無学の若造め」
「戦わないで逃げるのか臆病者!」
「どの面下げて国に帰るのか」
などなど罵倒の言葉ばかりだったのです。
これを読んでしまった曹真はあまりの無念のために死んでしまいます。いわゆる「憤死」というものです。いくら諸葛亮の有能さを示すといっても少しやりすぎなエピソードなような気がしますね。ただ、これがその後の司馬懿との対決を盛り上げるスパイスにもなっています。
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三国志ライターみうらの独り言
曹真は自分の恩賞を部下に分け与えるなど、部下にも好かれた人物だったようです。そんな曹真をあんな扱いにするなんて「三国志演義」はちょっと酷いですね。
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