魏の功臣「曹真」の息子たち6兄弟の悲しい末路とは?

2022年3月5日


 

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曹真

 

曹真(そうしん)」は幼いころから曹操の側近として活躍し、数々の戦で功績を挙げた魏の功臣の1人です。

 

幕末 臨終のシーン 亡くなる(死)モブ

 

そんな曹真には6人の息子がいたのですが、曹真の死後、彼の地位を継ぐものの、悲しい最期を迎えてしまいました。今回の記事ではそんな曹真の息子たちについて探ってみましょう。

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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曹真の大きな功績とは?

曹真を引き取り養う曹操 +曹丕

 

曹真の父は、同族として曹操(そうそう)の挙兵に参加しましたが、董卓(とうたく)の配下といさかいを起こし、殺されてしまいました。その時まだ幼かった曹真の事を曹操は不憫に思い、自ら引き取り息子同然に育てたといいます。

 

曹叡に蜀を征伐することの必要性を説く曹真

 

その後は曹操の下で将軍として数々の功績を挙げ、曹操の死後、息子の曹丕(そうひ)にも一族の重鎮として信頼されていました。曹丕の死後は司馬懿(しばい)などと共に曹叡(そうえい)の後見をまかされ、諸葛亮(しょかつりょう)の北伐への迎撃で活躍し、蜀征伐にも赴きますが、蜀が滅びる前に亡くなっています。

 

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6人の息子たち、曹真の跡を継ぐ

曹爽

 

曹真の死後、その爵位は息子の「曹爽(そうそう))」が継ぎますが、そのほかの5人の息子(曹羲(そうぎ)曹訓(そうくん)曹則(そうそく)曹彦(そうげん)曹皚(そうがい))も列侯(高い爵位)を与えられました。

 

曹芳

 

そして曹爽は皇帝曹叡の死の間際、次の皇帝曹芳(そうほう)」の後見を司馬懿らと共に託されます。

 

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魏のマイナー武将列伝

 

 

権勢をふるう「曹爽」

曹芳

 

曹叡の死後、跡を継いだ曹芳の下で曹爽は魏の実権を握ります。同じく曹芳の後見を任された司馬懿は当時、蜀の北伐等への対応に従事していたため、曹爽が中央で権勢をふるいます。

 

司馬懿と曹爽

 

しかし、曹爽は更に魏の政治軍事ともに掌握したいと考え、司馬懿が邪魔になります。彼を除こうと考えますが、司馬懿の戦での功績は大変大きく、彼から軍権を奪う事は出来ませんでした。曹爽も負けじと蜀に戦を仕掛けますが、逆に大敗してしまい、ますます司馬懿への注目が高まります。

 

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帝政ローマvs三国志

 

 

司馬懿と曹爽、対立する

曹爽にアドバイスする鍾毓

 

曹爽は蜀に大敗し、後に呉侵攻にも敗れ、魏の政治は混乱します。にも関わらず、曹爽はさらに自分に権力を集中させようと考え、皇帝をもないがしろにし、司馬懿とも対立しました。

 

年を取った司馬懿

 

司馬懿はこの混乱に巻き込まれるのを避けるため、仮病で引き籠り、権力奪取の機会を狙います。曹爽は司馬懿を警戒し、部下に様子を見に行かせます。司馬懿は女中に介護させるなど病気が重いという芝居をし、曹爽の警戒心を解くことに成功します。

 

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はじめての漢王朝

 

 

クーデターで悲しい最期を迎えた曹真の息子たち

司馬懿の墓

 

249年、皇帝曹芳は先帝の墓参りをするために「高平陵(こうへいりょう)」という陵墓(皇帝の墓)に向かいます。これには曹爽とその弟も付き従いました。司馬懿は曹爽たちが都を空けたのをみはからい、皇帝の母に「曹爽が私利私欲に走り、皇帝をないがしろにしている、地位をはく奪すべし」と上奏します。

 

司馬師と司馬懿

 

司馬懿は曹爽排除の許可を取り付け、息子らにあっという間に宮廷を掌握させます。曹爽はあわてて司馬懿の真意を探らせると、曹爽を糾弾しているものの、命を奪うほどではないと判断しました。周囲は反対しましたが、曹爽は戦わずに司馬懿に降伏します。

 

司馬懿

 

しかし、結局は謀反の疑いをかけられ、一族皆殺しになってしまいます。この一連のクーデターを「高平陵の変」といいます。その後司馬懿の一族は権力を完全に掌握し、後に魏を滅ぼし「晋」を建国することにつながっていくのです。

 

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はじめての列子

 

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みうらひろし

みうらひろし

歴史が好きになったきっかけはテレビの再放送で観た人形劇の三国志でした。そこから歴史、時代小説にはまり現在に至ります。日本史ももちろん好きですよ。推しの小説家は伊東潤さんと北方謙三さん。 好きな歴史人物: 呂蒙、鄧艾、長宗我部盛親 何か一言: 中国で三国志グッツを買おうとしたら「これは日本人しか買わないよ!」と(日本語で)言われたのが思い出です。

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