江東の地に勢力を拡大した「孫策」。その妻は「大喬」といい、妹の「小喬」は孫策の側近の周瑜の妻となっています。この二人は「二喬」とも言われ、美人姉妹としても有名ですよね。
様々な創作物ではよく見かける「二喬」ですが、実際はどんな人物だったのでしょうか?
今回の記事で探ってみましょう。
この記事の目次
正史「三国志」の記述はあまりにも少ない
正史「三国志」は女性の情報がとても少ない史書ですが、「大喬」についてもほとんど記述がありません。そもそも正史「三国志」では「大“橋”」とされ、「孫策の妻であった」というわずかな記述しか残されていません。妹の「小喬」も同様で「小“喬”」と記述されており、人柄を伺うことは難しいです。
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正史「三国志」での大喬
正史では「大橋」とされていますが、今回の記事では一般的に知られている「大喬」で統一しますね。さて、正史での記述ですが、大喬は「喬公」という人物の娘とされています。
大喬らが孫策の妻になったのは孫策が廬江(現在の安徽省合肥市)の「皖城」を攻め落とした事がきっかけです。大喬と小喬は落城の際に捕虜となり、大喬は孫策、小喬は周瑜の妻になりました。
姉妹の父親の「喬公」はどんな人物か記述はありませんが、娘を城に入れていることから、もしかしたら民間人かも知れませんね。
しかし、妻になってからわずか4か月後に孫策は暗殺されてしまいます。その後は皖城の主だった「劉勲」の妻子らと共に呉に移送されますが、その後の消息は一切不明で、正史から記述は消えてしまいました。
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孫策との間に子供がいるのか?
正史「三国志」には孫策と大喬の間に子供がいたのかは記述がありません。しかし、孫策には子供が一人いて、「孫紹」という息子がいたのです。
生没年も母の名前も不明ですが、孫策が亡くなったときはまだ子供だった、もしくは母親のお腹の中だったと考えられます。大喬が孫策の妻だったのはわずか4か月ですが、孫紹が大喬の子供だった可能性は無くは無いですね。ちなみに孫紹は孫権に仕え、朝廷の儀礼などを担当していたようです。
孫紹には「孫奉」という息子がいましたが、呉の最後の暴君「孫皓」に殺されてしまい、孫策の血は途絶えてしまいました。
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小説「三国志演義」での「大喬」
大喬に大きくスポットが当たっているのは小説「三国志演義」です。大喬、小喬の姉妹は絶世の美女とされ、二人合わせて「江東の二喬」と言われていました。
「赤壁の戦い」の際には曹操が呉から「二喬」を奪おうとしていると、諸葛亮が周瑜にほのめかし、これに怒った周瑜が曹操との戦いを決意する、という事になっています。
また、孫策の母「呉夫人」を遺言により養うなど、心優しい女性のようにも描かれています。また、二喬ともに兵書を読むのが趣味で、このことは多くの画題にもされています。
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