「費禕」は諸葛亮が亡くなった後の蜀を支えた人物です。「有能な官僚」というイメージがある費禕ですが、正史「三国志」にはそんな彼のエピソードがいくつか記されています。いずれも費禕の頭脳の明晰さを示したものばかりで実は面白いのです。
今回の記事ではそんな費禕の「三国志」に記された逸話についてみてみましょう。まずは費禕の経歴から。
この記事の目次
蜀に仕え、諸葛亮にも認められた才能
費禕は江夏郡の生まれですが、親せきを頼って益州に移住しました。そこでのちに同じく蜀に仕えることになる「董允」とともにその優秀さが有名でした。劉備が益州を制した後に彼に仕え、劉備の死後は劉禅の側近となりました。
諸葛亮にも信頼され、たびたび呉へ使者としても訪れ、孫権にも「君は蜀の中心人物となるだろう」と、絶賛されています。
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諸葛亮亡き後の蜀を支える費禕
諸葛亮が亡くなった後は「蔣琬」とともに蜀の政治を担いますが、蔣琬の北伐には反対しています。蔣琬の死後は軍事を含めた国政を担い、軍事行動を抑え、内政に力を注ぎました。
姜維が大軍をもって北伐を実行しようとした際には「丞相(諸葛亮)でさえ達成できなかった事をわれらが成し遂げられるのか。今は国を保ち、有能な人材の出現を待つべきだ。」と、姜維には1万足らずの兵士か与えなかった、と言います。
しかし、費禕は降伏してきた魏の武将に刺殺されてしまいます。その後国政を握った姜維は北伐を繰り返し、国力を衰退させてしまい、結局は蜀は滅亡します。
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逸話1:仕事ができる費禕
費禕は国政を担当し、とても多忙でしたが、記録を読む場合はしばらく見るだけで常人の数倍の速さで内容に精通し、忘れることはなかったそうです。また、客の応対をしたり、飲食したり博打をすることも好きでしたが、決して職務をサボることはありませんでした。ある時、董允が費禕の仕事のやり方を真似してみたのですが、数日で仕事が滞ってしまい、董允は驚愕したといいます。
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逸話2:度胸がある費禕
ある日、蜀の名士の葬儀がありました。費禕は董允と一緒に車に乗って出かけたのですが、いざ葬儀会場に到着してみると、諸葛亮など身分の高い人物が勢ぞろいでした。しかし、車で来た人は一人もいなかったのです。董允は動揺してしまいましたが、費禕は堂々としていたそうです。
これを聞いた董允の父は「お前(董允)と費禕、どっちが優秀なのか分からなかったが、今日わかった。」と、語りました。
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【北伐の真実に迫る】
逸話3:呉の才能を論破してしまう費禕
費禕は呉へ使者として訪れることになりました。
そこで呉の孫権は
「費禕が来ても無視しよう」
と嫌がらせを提案しました。
費禕が会食会場に訪れると孫権の提案どおり、呉の面々は費禕を無視して食事をしています。
そこで費禕は「麒麟は鳳凰が来た時には食事を止めたといいます。しかし、ここにはロバしかいないようですな。ひたすら下を向いて食事をしているだけですから。」と。
そこですぐさま呉の「諸葛恪」(諸葛亮の甥)が反論します。
「鳳凰を迎えるはずだったが、雀の類が来たようだ。弓で討って故郷に返してやれ!」といったそうですが、この反論はあまり気に入られなかったらしく、結局費禕は孫権に認められます。
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