劉備、関羽、張飛の三人が誓った「桃園の誓い」は、小説「三国志演義」序盤での見どころの一つですよね。しかし、三人が桃園で杯を掲げている場面をよく見るものの、実際はどんなことを誓っていたのか、わからない方も多いのではないでしょうか?
今回の記事ではそんな「桃園の誓い」について探ってみましょう。
この記事の目次
世の中は乱れ、劉備は己の無力を悟るが、張飛と出会い・・・
漢王朝末期、王朝は統制を失い、「黄巾の乱」という反乱も発生し世の中は乱れていました。
「劉備」は漢王朝の血を引くと言われている男でしたが、貧しく自らの不遇を嘆いていました。そんな時に劉備の住む村に黄巾族を討伐するための兵士を募集する高札が立てられます。
多くの若者はそれに志願しますが、年老いた母を養っていた劉備は
「自分は何もできない」
とため息をつきました。
それを見ていたのが「張飛」でした。
彼は劉備に
「男がため息とは情けない。
君の本心を言ったらどうか?」
劉備は
「実は本心を隠していました。
私は漢王朝の血を引いており、世の中の乱れを誰よりも嘆いております。
機会があれば、立ち上がりたいと思っております。」
張飛はその心意気に感激し、劉備を酒に誘うのです。
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関羽との出会い
訪れた酒場では長身(2メートル以上とも)で立派な髭(40センチ以上)を持つ男に出会います。彼が「関羽」でした。関羽も世の中の乱れを嘆いており、自分も何かできないか、と考えていました。ここで劉備、張飛、関羽の三人は意気投合することになるのです。
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三人の誓い「桃園の誓い」
三人は張飛の屋敷の近くにある「桃園」で宴会を開くことになります。そこには多くの桃の木が植えられ、三人が出会った頃は桃の花が満開のころだったといいます。そして三人は「義兄弟」の誓いを結び、生死を共にすることを周囲に宣言することになるのです。
その誓いの内容は
「われら三人、生まれた日時は違えども、兄弟の契りを結んだからには助け合い、国家を敬い、困った人々を救おう。我ら同年同月同日に生まれることはできなかったが、同年同月同日に死せることを願う。」
と、言ったものでした。
その後の三人は義兄弟として歴史に名を残していくことになるのです。
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その後の三人
その後三人は動乱の時代を駆け抜け、ついに劉備は「蜀」王朝を設立することになります。関羽、張飛とも劉備の忠実な家臣としてその覇業に貢献しました。
しかし、関羽は呉との戦いで殺され、張飛も部下の裏切りにあい、殺されてしまいます。
劉備は怒り狂い、彼らの弔い合戦として周囲の反対を押し切り「夷陵の戦い」を起こしますが惨敗し、劉備は失意のうちに亡くなります。「共に死ぬ」ことを誓った三人でしたが、その願いは叶わなかったのです。
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感動的な三人の誓いだが、創作です!
「桃園の誓い」は「三国志演義」における名場面の一つで、他の小説やメディアで様々なアレンジがなされていますが、正史「三国志」にはそのような記載はなく、残念ながら小説「三国志演義」の創作です。
正史「三国志」には「桃園の誓い」はありませんが、関羽と張飛が劉備に忠実に仕えたことは折に触れて記載されており、実際に兄弟のような絆はあったのかもしれません。
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