「卑弥呼」は古代日本で有名な「邪馬台国」の女王と言われている人物です。
その邪馬台国の事績は「魏志倭人伝」に記載されていることで有名ですが、この「魏志倭人伝」、実は「三国志」の中の記述なのです。
邪馬台国の卑弥呼が魏に使者を送ったことから、「三国志」に記載されることなった邪馬台国ですが、そもそもなぜ魏に使いを送ることになったのでしょうか?
今回の記事では「卑弥呼が魏に使いを送る理由」について考えてみましょう。
この記事の目次
「魏志倭人伝」とは?
卑弥呼が魏に使いを送ったことが記載された「魏志倭人伝」とは、正史「三国志」の「魏書」の中の異民族について記載された「鳥丸鮮卑東夷伝倭人条」の略称です。
「倭人」とは今の日本人だと言われており、魏志倭人伝の中には当時の日本人の事について記載されているのです。3世紀ごろの日本の様子を伺える唯一の資料とされており、邪馬台国の場所などで今も論争が続いています。
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「倭人伝」が伝える卑弥呼からの魏への使い
卑弥呼が初めて魏に使いを送ったのは西暦238年ころだと言われています。この時卑弥呼は朝鮮半島にあった魏の出先機関「帯方郡」に使者を送り、皇帝(曹叡か曹芳)への謁見を願い出ました。
これは認められ、倭の使者は皇帝に謁見し、生こう(奴隷?)や布を献上し、皇帝は金印や銅鏡を与えました。その後も何度か倭国から魏に使者は送られ、魏からも役人が倭国に派遣されています。
卑弥呼の死後、邪馬台国は乱れますが「台与」という女性が王に立つと国は収まり、再び台与も魏そして後継の「晋」にも使者を送っています。
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分かりやすく解説「邪馬台国入門」
他国との戦いで優位に立つために使者を送った?
卑弥呼が魏に使いを送る理由は何だったのでしょうか?
「魏志倭人伝」によると、邪馬台国は南にある「狗奴国」と対立関係にありました。おそらく日ごろから戦争状態にあり、戦況は拮抗していたと思われます。
そこで邪馬台国は大国である魏の後ろ盾を得ようとしたのではないでしょうか。実際、247年の使者は「狗奴国と戦争状態にある」と魏に報告し、それに対し魏は「張政」という役人を派遣しています。張政の詳しい身分は不明ですが、狗奴国を威圧もしくは和平を促す役目か、邪馬台国の軍師として派遣された可能性がありますね。
いずれにせよ、邪馬台国は魏の権威を利用し、他国を圧倒しようという意図があったと考えられます。ちなみに派遣された張政は女王卑弥呼の死後に後を継いだ台与を激励する役目をしており、当時の邪馬台国のアドバイザーとして大きな役目を果たしていたのかもしれません。
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中国との交流は続いていた
その後、中国では三国志の時代が終わり、「晋」が中国を統一しました。晋の史書「晋書」には「266年に倭人が使者を送った」との記述があり、少なくともこの頃までは中国との交流があったことがわかります。
しかし、その後中国の史書からは倭国や邪馬台国の記述は無くなり、次に倭国の記述が現れるのは150年後の「宋」の時代まで待たなくてはなりません。
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狗奴国との戦争はどうなったのか?
卑弥呼は狗奴国との戦いに有利に立つために魏に使者を送ったと考えられます。では、その狗奴国との戦いはどのような決着を迎えたのでしょうか?
「魏志倭人伝」には卑弥呼の死と、その後の混乱、台与が女王になることで国が治まったことは記述されていますが、狗奴国がどうなったのかは記載されていません。それに加え、そもそも「邪馬台国」がどうなったかもわからないのです。
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