今回は、いよいよ、行基が東大寺の大仏建立に関わることになった経緯についてのお話です。ただ、その前に、行基が、どのようにして大和朝廷内部から信頼を得たのか、もう少し深くお話します。
前回では、行基が利他行の実践(自分のためでなく、人のためになる行為をすること。行基の場合は、托鉢により得たモノを貧困層に分け与える行為)をしたことで、初め大和朝廷に弾圧されつつも、徐々に優遇される存在になった理由をお話しました。
一つは、都(平城京)の下級役人たちの家族たちからの支持があったこと。(彼らは貧困層にも近い状況だったため。行基の利他行に感化された。)二つは、地方各地で、灌漑や架橋事業の成功のために、行基が指導力を発揮したことで、その地方を管理する豪族の信頼を得たということです。
そして、今回は、さらに大和朝廷の内部に目を向けて、もっと強大な存在の支持を得たことについてお話します。それが、優遇されていく大きな理由になるのです。それは、時の皇后「光明皇后」です。
詳しく見ていきましょう。
皇后と同郷だった!?
元々、光明皇后は、熱心な仏教信徒であったと言われています。寺院の建立や写経事業を命じていたようです。(ちなみに、光明皇后の父は、「藤原不比等」です。後の平安京時代に、貴族としての藤原家の隆盛の礎を作った人物と見られています。)
そして、光明皇后が幼少期を過ごした場所、母親(県犬養三千代)の出身地と思われるのが、当時、「河内国大鳥郡」と呼ばれた地域です。すると、行基も同郷になるようなのです。
(ちなみに、この「大鳥郡」は、757年には「河内国」から分離独立し「和泉国」の管轄内になるということなのです。)つまり、光明皇后と生まれ故郷が近いということで、光明皇后からの熱烈な支持があったとも考えられるのです。
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多くの女性たちの支持あり?
さらに、行基には、多くの女性たちの支持もあったのではないかという説があります。行基の周りに集まった者たちの中には、多くの尼や女性信者がいたと言われています。
(ちなみに、行基を信仰し、共に行動した、所謂「行基集団」は、その数、数千人に及んだと言われます。当時、日本人口700万人程、平城京人口10万人前後と言われています。その行基集団は平城京中心に近畿地方に点在したと思われるのですが、平城京だけでも千人以上はいたと考えられ、相当に多い率の印象です。)
行基の出身地の「大鳥郡」には行基集団が数多くいたようなのですが、その行基集団が多く参加して作成されたと見られる、「写経本」【天平二年(730年)】があります。
これには、当時の「大鳥郡」の郡司(地方官)も参加し、計709人参加したと記録されています。そして、内 433人が女性だったと記載されているのです。約6割の女性率ということになるのです。多くの女性たちが行基集団を支えた印象でもあるのです。この史実から、当時、奈良時代は女性の強い影響力を感じさせます。
やはり、フェミニズムの時代だったのかと思わせますが、それも男も女も分け隔てなくという仏教(ブッダの教え)によるものかもしれません。
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大和朝廷の思惑[行基は利用された?]
時の皇后の支持もあって、行基に対する大和朝廷の姿勢は優遇へと変わっていきます。行基に対する呼び名も変わっていったことも分かっているのです。それまで蔑称として「小僧」と呼ばれていたのが、尊称として「法師」という呼び名へと変わっていきます。
こう見ていると、行基の「利他行」が大和朝廷に大いに認められたのか?と考えたくなります。ただ、それは、大和朝廷側の国家戦略だったとも言えるのです。つまり、行基という僧侶を利用して、庶民たちを臣従させようとしたか?とも考えられるのです。
時の皇后の光明皇后は、行基に対して信頼を寄せていたかもしれませんが、それ以外の朝廷の上級役人たちの中には、怪訝な目で見ている者たちもいたかもしれません。しかし、そのような怪訝な目で見ていた役人たちでさえ、行基にすがらねばならない事情があったのだと思います。
それは、まず、相次ぐ飢饉や、病(天然痘)蔓延が発端でした。さらに、宮中での権力争いや、北九州の地方での反乱「藤原広嗣の乱(740年)」が勃発したことが大きかったのです。平城京の宮廷内は大いに乱れ、反乱軍が都へ攻め上って来るのではという恐怖に打ちひしがれたのです。
そこで、遷都の計画が持ち上がり、「恭仁京(現・京都府木津川市)」を造営し始めます。その最中、恭仁京から北東へ離れたところに「紫香楽宮(現・滋賀県甲賀市)」という離宮も造営開始します。
加えて、(「飛鳥時代」には都として使われた)旧都の「難波京」(現・大阪市中央区)が、奈良時代(平城京時代)には、「難波宮」と呼ばれる宮殿として再建され、「副都」として使われていました。
それらの地域を、時の帝の「聖武天皇」は行幸という形で、行ったり来たりと、度々避難するのでした。しかし、度重なる新都造営で、庶民の負担は増すばかりで、不満が多かったのでしょう。
そんなとき、行基が指導する「灌漑事業」や「架橋事業」が幾つも畿内各地で成功したことが、宮中の聖武帝や役人たちの耳に入るのでした。早速、聖武帝は行基と面会して、当時の土木工事のプロ集団と目されていた「行基集団」に助けを願い出たのでした。
そのとき、行基はそれに応える代わりに、孤独者たち(この場合、身寄りのない貧困の人々)を救済する施設を作る許可を申し出て、聖武帝はこれを認めたのです。
さらに、その2年後、その「紫香楽宮」で、「大仏建立」が発案され、詔(勅命)が出されるのです。しかし、そこでの大仏建立は、地震の頻発と不審火が相次ぎ、断念とされます。しかも、「恭仁京」造営も断念され、途中で放り出す結末となります。
聖武帝は、平城京へと戻ることになり、大仏建立もその近く、今の「東大寺」に造営する運びになりました。その計画に行基は加担させられていくのです。そう見ると、行基は騙されたのか?それとも、本心で朝廷に従ったのか?という疑問も出てきます。
庶民よりも朝廷を選んだということなのか?行基の心変わりなのか?という気持ちになります。しかし、それは違うようです。
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大仏建立とオリ・パラ開催は似ている?
2021年に、新型コロナウイルス(COVID?19)という感染症の病気蔓延の最中で開催された「東京オリンピック」と「東京パラリンピック」でしたが、一方の見方では、病気蔓延を助長するのではないかという批判的な意見もたくさんありました。
奈良時代の東大寺の大仏建立の時も、病気(天然痘)が蔓延していた上に、度重なる労苦で庶民は疲弊していましたから、批判もたくさんあったようです。ただ、どちらも人々の心の救済を目的の一つとされていたという良い意味での共通点もあったと考えられます。大仏建立が「病は気から」の象徴となっていた可能性は大いにあったのです。
さらに、行基自身も、大仏建立には意欲的だったという見方が強いようです。それは、やはり、中国大陸の高僧「玄奘三蔵」の影響力があったかもしれません。行基の大師匠に当たるのが玄奘なのですから。(先回にもお話したように玄奘も大仏の存在には好意的な姿勢だったとの記録があるのです。)
また、当時、東大寺や各地の仏寺では、「般若心経」の唱和や集団による写経がされることもあったようです。「般若心経」は玄奘の漢訳したものだったでしょう。
海を越えた日本にまで、確実に玄奘の影響の波は押し寄せていたのです。そして、行基は、玄奘の生まれ変わりか?とも思わせてくれるのです。玄奘の死(664年)から数年後の(668年)に、行基は生まれたようなのですから。
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おわりに
大仏建立の事業により、行基は時の人となり、大僧侶の地位に登りつめるのでした。さらに、この奈良の平城京の時代、海外から来日した僧侶が幾人もいたのですが、その中には、南インドから来日した僧がいました。その僧は「菩提僊那〔ボーディセーナ【サンスクリット語】〕」として記録に残っています。行基との交流もあった人物です。
行基は、東大寺大仏建立には、そのボーディセーナに指揮してもらうべきだとも提言しています。しかも、東大寺大仏開眼供養の儀式の時には、ボーディセーナが立ち会っているのです。次回は、ボーディセーナを含めて海外から来日した渡来僧に注目していきます。お楽しみに。
【了】
【主要参考文献】
・『玄奘 新装版 (Century Books 人と思想)』
(三友量順 著 ・清水書院 )
・日本の名僧 2巻『民衆の導者 行基』
(速水侑 [編]・吉川弘文館)
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