様々な戦いで勝利を収めた曹操ですが、中には奇策を用いての勝利もあります。そんな中で特殊なのが「氷城の計」、なのではないでしょうか。
このエピソード、正史三国志の「注」において語られており、曹操がなんと「氷の城」を作った、というものです。これがいわゆる「氷城の計」と言われるものですが、それはどんな計略だったのでしょうか?
今回の記事ではその「氷城の計」について紹介します。
この記事の目次
出典は正史三国志の「注」
「氷城の計」のエピソードは正史三国志の「注」に見られます。「注」というのは「裴松之」という人物が正史三国志に様々な書物から抜き出したエピソードを注釈として追加した文章です。
「氷城の計」は「曹瞞伝」という書物から引用されています。「曹瞞伝」は呉で書かれた書物で曹操に関する逸話が書かれていたようです。
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曹操、馬超と戦うも苦戦する
西暦211年、曹操は漢中を奪取すべく、その地を支配していた「張魯」を攻めようと計画します。その流れで自分たちの領土が脅かされた「馬超」や「韓遂」は曹操に戦いを挑むことにしたのです。
馬超軍と曹操軍は「渭水」(黄河の支流の河)周辺で激突することになります。しかし、渭水周辺は地質が悪いのに加え、馬超軍の度重なる攻撃に会い、曹操軍は守りの要である「砦」をなかなか築くことができませんでした。
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曹操に「氷城の計」を用いる
なんとか砦が完成しても、馬超軍は神出鬼没で夜襲を好み、砦を焼き討ち、そして水攻めするなどあっという間に砦を使用不要にしてしまいます。困り果てた曹操の元にある一人の男が現れます。それは「婁圭」という男です。
彼は曹操に仕えていたようですが、曹操にアドバイスをします。「今は寒い時期でございます。砦は未完成でも、水をかけておきましょう。そうすると夜が明けるころには砦が完成していることでしょう。」と言います。
曹操はその提言を受け入れ、砦に水をかけておきます。するとなんと、朝になると砦にかけた水が凍り、「氷の城」が完成しているではありませんか。この砦を用い、曹操は馬超軍と戦うことができたのです。これが「氷城の計」です。
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婁圭とは何者か?
曹操にアドバイスをした婁圭とは何者なのでしょうか?
彼は荊州の生まれで、若いころは「俺は後世に名を残す男になる」と常々大言し、人々に笑われていたそうです。その後は荊州で兵を集め、乱世の群雄の一人として名を知られるようになっていました。
この時、荊州の食料を狙い、董卓の部下だった「張済」が襲撃してきますが、婁圭は劉表と組み、これを撃退します。しかし、一度は支配下に置いた「王忠」という武将が、婁圭の下につくことを好まず、逆に婁圭を戦いで破ってしまいます。その後は劉表の元は離れ、曹操軍に身を寄せることになりました。
曹操軍での婁圭とその最期
曹操は婁圭を高く評価していたのか、将軍職に就けます。ただ、戦場には出さず、いつも会議で意見を聞いていたそうです。おそらく婁圭は軍師的な立場だったのでしょう。
そんなある日、曹操は息子たちとともに外出し、婁圭も従います。しかし、その時婁圭は「曹操家の父子はこんな楽しみを味わったことがあるのかなあ。」と軽口をたたきます。
これを聞いたあるものが曹操にこれを伝えると、曹操は「誹謗中傷だ」と激怒し、婁圭を処刑してしまいます。前述の王忠の件と言い、軽口の件といい、婁圭はあまり性格的に優れている人物ではなかったのでしょう。ちなみに小説「三国志演義」などでは婁圭は「仙人」という設定にされ「夢梅道士」という謎の男になっています。
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