この記事の目次
- 1ページ目
- イワン雷帝死後、ロシアは大動乱に陥る
- ロシア人が団結しミハイル・ロマノフをツァ―リに選出
- ロマノフ帝国、ウクライナの東半分を獲得
- コサックとは?
- 派閥争いを勝ち抜きピョートルが即位
- ピョートル大帝の時代
- ツァーリ争奪戦と女帝の活躍
- 女帝エカチェリーナ2世時代
- 2ページ目
- 欧州の憲兵アレクサンドル1世
- ロシア革命の原点、デカブリストの反乱
- オスマン帝国の弱体化と東方問題
- 1848年神聖同盟が解消
- クリミア戦争の敗北で上からの改革を再開
- 農奴解放令が出される
- 再びバルカン半島へ進出
- ロマノフ帝国最後の皇帝
- ニコライ2世極東へ進出
- 日本を見下すニコライ2世
- 日露戦争の敗北と血の日曜日事件
- 十月宣言の屈辱
- パン=スラヴ主義を推進し第一次世界大戦を招く
- ロマノフ帝国の終焉
- ニコライ2世と家族は処刑される
- 世界史ライターkawausoの独り言
欧州の憲兵アレクサンドル1世
1796年、エカチェリーナ2世は脳溢血に倒れ、回復する事無く崩御します。後を継いだのはエカチェリーナ2世の子パーヴェル1世でしたが、エカチェリーナ2世は、幼くして引き離された息子に愛情がなく、むしろ殺そうとしていたそうです。
この事からパーヴェル1世も母帝を憎み、在世中はエカチェリーナの政策をことごとく覆す定見がない政治を繰り返し、1801年に側近の貴族たちに寝室で寝ている所を暗殺されました。
暗殺に成功した貴族たちは、その場に居合わせたパーヴェル1世の皇太子のアレクサンドルに即位する事を要求、アレクサンドルは受け入れ、アレクサンドル1世として即位します。
アレクサンドル1世はナポレオンに戦争で敗北し大陸封鎖令に署名。イギリスにロシアの農産物を輸出できなくなります。しかし、アレクサンドルは、裏で大陸封鎖令を破って密貿易をしていたので、ナポレオンは激怒し1812年5月、ロシア遠征に踏み切りました。
ナポレオンの大陸軍はプロイセン、ポーランドの兵を加えて60万の大軍となり、ネマン川を越えてロシアに侵攻。
迎撃したアレクサンドル1世のロシア軍はスモレンスク、さらにボロディノ会戦で大敗します。大ピンチのアレクサンドル1世ですが、ここで名将クトゥーゾフの進言を入れモスクワを焼き払った上で退却する焦土作戦を展開します。
ナポレオンは、ロシア軍の士気の低さからモスクワに入ればアレクサンドル1世は降伏し、賠償金と領土を受け取り、秋までには帰れると楽観し兵站も冬支度もありませんでした。狭いヨーロッパの戦争ではナポレオンの考え方が当たり前だったからです。
しかし、無限の広さを持つロシア軍の戦い方はまるで違いました。ロシア軍は戦いを避けて逃げまくり持久戦に転じると、フランス軍は食糧不足に苦しみ、やがて厳しいロシアの冬に直面したのです。
飢えと寒さにナポレオンが撤退を決意するとロシア軍が反撃に転じ、飢えと寒さで弱っていたフランス軍は各地で総崩れとなります。コサック騎兵も神出鬼没の奇襲を繰り返し、フランス軍を寸断。無事にパリに帰れたフランス軍将兵は僅か5000人でした。
ナポレオンは続くライプツィッヒの戦いでも大敗して退位し、エルバ島に流されます。その後、政変の隙をついてエルバ島を脱出したナポレオンですが、ワーテルローの戦いで再び敗れ、セントヘレナ島に流罪となり生涯を閉じました。
アレクサンドル1世は侵略者ナポレオンを倒した英雄としてウイーン会議で発言力を持ちポーランドを事実上の支配下に置いてポーランド立憲王国の国王を兼任。
1815年にはイギリス、プロイセン、オーストリアと神聖同盟を結び、ナポレオンが欧州にバラまいた自由主義や民族主義運動を弾圧する共同歩調を取り「ヨーロッパの憲兵」と呼ばれます。
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ロシア革命の原点、デカブリストの反乱
しかし、ナポレオンが蒔いた自由主義と国民国家の理念は、皮肉な事に欧州で最も強力なツァーリ専制体制を敷くロマノフ帝国内部にも多くの共鳴者を産んでいました。
1825年12月「欧州の憲兵」アレクサンドル1世が急死。息子のニコライ1世が慌ただしく即位すると、混乱を衝いて青年将校を中心とした貴族の一部がツァーリズム打倒を叫んでデカブリストの反乱を起こします。この反乱には民衆的な広がりがなく鎮圧されますが、ロシア革命運動の出発点となりました。
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オスマン帝国の弱体化と東方問題
ニコライ1世は弱体化したオスマン帝国に付け入り、バルカン半島・黒海方面から地中海へ進出しヨーロッパ列強に対応しようとします。しかし、オスマン帝国が抑える広大な領土に野心を持つのはロシアだけではなく、神聖同盟を結んだプロイセンやフランス、イギリスも同じでした。
欧州列強が他民族国家であるオスマン帝国の政治に干渉した事で、オスマン帝国の傘下にあったギリシャやエジプトの民族独立運動が激化します。これが最終的に第1次世界大戦の遠因になる東方問題です。
1821年、ギリシャがオスマン帝国からの独立を目指して戦争を起こすとニコライ1世は南下のチャンスと見て、ギリシャ支援に乗り出し、イギリス・フランスの連合艦隊でオスマン艦隊をナヴァリノ海戦で破り1829年、オスマン帝国とアドリアノープル条約を結んで黒海北岸を割譲させます。
1830年のロンドン会議でギリシャの独立は承認されオスマン帝国の権威は大きく低下し、ロシアの南下の条件が整いました。
ニコライ1世は、次に敵対していたオスマン帝国に接近。1831年にエジプト=トルコ戦争が始まるとオスマン帝国についてエジプトと戦います。オスマン帝国はロシア艦隊の支援を受ける為ダーダネルス=ボスフォラス海峡のロシア艦隊の航行権を認めるウンキャル=スケレッシ条約を締結。逆に他国軍艦の通行は禁止されました。
ロシア艦隊が地中海を航行する事に欧州列強は強い警戒感を示し、オスマン帝国に干渉、オスマン帝国は妥協し、1841年に五か国協定が結ばれてウンキャル=スケレッシ条約が破棄され海峡は再び封鎖されます。
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1848年神聖同盟が解消
1848年、欧州の専制君主国が連携した反動体制、神聖同盟は、フランスの七月王政を倒した二月革命や、ウイーンとベルリンにおける三月革命、オーストリア帝国の動揺に乗じたハンガリー、イタリア、ポーランド、ボヘミアの革命運動に発展します。
これらの革命は結果的に鎮圧されますが、もはや国民の自由と平等を求める運動を食い止める事が不可能であると欧州諸国に痛感させました。
しかし、ただ一国、ロマノフ帝国だけは強固にツァーリズムを維持拡張、国内の矛盾を対外征服で抑え込もうと南下政策を促進し、ロシアの膨張主義を警戒するイギリスとフランスとの対立が深刻化します。
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クリミア戦争の敗北で上からの改革を再開
南下政策を推進するロシアは、オスマン帝国領内のギリシャ正教徒の保護を名目に、オスマン皇帝にエルサレムの聖地管理権を要求しバルカン半島へ進出しようとします。
ロシアの南下に危機感を抱くイギリス、そして外交的な名声を得たいフランスのナポレオン3世がイギリスに味方しこれに反発。ナポレオン3世も同じくオスマン帝国内のイェルサレムの聖地管理権を要求して認められます。
こうして、イギリスとフランスの支援を受けたオスマン帝国はロシアの申し出を拒否しました。激怒したニコライ1世は、オスマン帝国領のモルダビア、ワラキアに進駐。オスマン帝国はロシアに宣戦を布告します。
これに対し、ニコライ1世はオスマン帝国領内のギリシャ正教徒の保護を理由に反発し、イギリス、フランスと緊張状態が高まりました。
しかし、イギリスとフランスばかりか、イタリア、オーストリアまでがロシアの敵に回ったため、ロシア軍はバルカンから退却、クリミア半島のセバストポリ要塞に籠城し1853年にクリミア戦争が勃発します。
戦争は3年に及びますが、最終的に近代化が立ち遅れていたロシア軍が近代化したフランスやイギリス軍に敗北しました。クリミア戦争は産業革命を達成し、民主主義を導入して士気が高い国民軍を組織したイギリスとフランスの圧勝となりロシアは自国に不利なパリ条約を締結せざるを得なくなり南下政策を一時断念します。
ニコライ1世の死後、即位したアレクサンドル2世はロシアの後進性を痛感。1861年それまで貴族の反対を考慮して手をつけなかった農奴解放令を実行しました。
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農奴解放令が出される
19世紀中頃、帝政ロシアの人口は6000万人で、そのうち1200万人が自由民で自由民の8%の100万人が貴族でした。農奴を所有したロシア人貴族は9万人で彼らは1000人以上から100人以下の農奴を所有し領地を耕作させていました。
農奴の人口は2250万人以上でロシア人の大多数を占め極貧の悲惨な生活を余儀なくされていました。農奴の権利向上なしにはロシアの近代化が望めないのは明らかです。
アレクサンドル2世は2世紀以上も手つかずだった農奴を人格的に開放。身分としての農奴制を廃止しました。
次にアレクサンドル2世は農奴が耕す小作地を国家が買い取り農民に49年ローンで有償分与するとしましたが、それは地代の16倍という高額であり自由民になった農民の負担として重くのしかかります。
また分与地は個人ではなく共同体に与えられ、農民が支払額に応じて分与地を得る仕組みでしたが、ローンを支払って自作農になる農民は希であり、農奴を解放して自作農を生み出して生産意欲を高めるとしたアレクサンドル2世の試みは失敗しました。
ただし、これにより土地に縛りつけられていた生活から解放され、仕事を求めて都市に流れ込んで労働者になる農民も生まれ、ロシアにようやくブルジョア資本家と労働者という資本主義の基礎的な土壌が誕生します。
また、農奴から解放された事で、地主からの理不尽な暴力が軽減された結果、農民が保守的になり、ロシアで革命を起こそうとする社会主義活動家の運動が停滞したのも事実でした。
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再びバルカン半島へ進出
1870年、ふたたび南下政策を開始したアレクサンドル2世は1877年から78年にかけてオスマン帝国との間でキリスト教徒の保護を口実に露土戦争を起こして勝利します。
バルカン半島への足掛かりを得たアレクサンドル2世ですが、イギリス、オーストリアの反対を受けてドイツ宰相ビスマルクの主催によるベルリン会議で調停を受け入れバルカン半島への進出が抑制されます。
以後、ロシアはバルカン諸国に対する方針を変え、武力を用いず同じスラヴ系諸国家を軍事的に支援するパン=スラヴ主義に転換していきます。
「直接手出しはしない、同じスラブ民族の独立を応援するだけなら文句ないだろ?」という詭弁ですが、なんとなく最近も見た手段のような…
ロシアはバルカン半島ばかりではなく、カフカス地方からイランとアフガン王国への進出を企て両国に盛んに干渉しイギリスと対立します。ツァーリズム維持のため、強いロシアを国民に印象付けるために、タコのようにユーラシア大陸各地に野心を伸ばし始めたのです。
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ロマノフ帝国最後の皇帝
1881年「上からの改革」ながら、農奴制の廃止に舵を切ったアレクサンドル2世は「人民の意志」グループの女性革命家ベロフスカヤに爆弾を投げつけられ暗殺されます。
農奴解放令により農民が保守化し革命に後ろ向きになった事で、絶望し自暴自棄になった革命運動家がテロリズムに走りますが、ベロフスカヤはそんな革命運動家の1人でした。
アレクサンドル2世の足は爆弾で千切れ、顔も判別不能なほどに破損していました。それを見た皇太子アレクサンドル3世は父の改革が、このような悲惨な末路を招いたと考え改革と逆行して皇帝専制を強めていくようになります。
当時14歳だった皇太孫のニコライも祖父の悲惨な死により父と同じく専制体制の強化を決意したそうです。1894年、アレクサンドル3世は病に倒れ回復せずにクリミアで亡くなり、ニコライが即位してニコライ2世となります。彼がロマノフ帝国14代にして最後のツァーリ、ニコライ2世です。
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ニコライ2世極東へ進出
ニコライ2世は、封建的な農村制度や低い生産力、近代工業の未発達を引きずりつつ、対外的には欧州並みの資本主義・国民国家として帝国主義的な膨張政策を展開する矛盾した政権運営をしていきます。
国内矛盾を抑え込む手段として、ロマノフ帝国の飽くなき拡大が早道だと考えたのです。強きロシア帝国を国民は皇帝を賛美するに違いないとニコライ2世は考え、微塵も疑いませんでした。
露土戦争後のベルリン会議でバルカン半島方面への南下政策を一旦停止したロシアは、再び方向を転換し東アジアでの勢力拡大に転じました。
「東を征服せよ」という意味を持つウラジヴォストーク港を拠点に日本海方面、さらに満洲から朝鮮半島への進出の動きを示します。
すでにアレクサンドル3世時代の1891年より、フランスの資金援助を受けてシベリア鉄道の建設が始まり、勃興したばかりのロシア資本主義の形成の核となっていました。
一方で国内ではアレクサンデル2世への爆弾テロから革命運動家への激しい弾圧が続き、農民だけの蜂起に限界を感じた革命家プレハーノフは1883年に、イギリスのマルクスが提唱したマルクス主義をロシアに導入。
資本家ブルジョア階級に搾取される都市の貧しい労働者階層に目をつけるようになります。
プレハーノフは1898年レーニンなどとロシア社会民主労働党を結成し社会主義革命を目指しますが、革命路線を巡り、共産党政府一党独裁を掲げるレーニンの指導するボリシェビキと、欧州型の複数政党制を目指すプレハーノフの指導するメンシェビキが鋭く対立。実質的に分裂します。
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日本を見下すニコライ2世
満洲から遼東半島を確保して朝鮮半島への南下を目論むニコライ2世は、日清戦争で遼東半島を清朝から割譲させた日本に対しドイツやフランスと共に三国干渉を仕掛け、遼東半島を返還させる事に成功します。
ニコライ2世は1891年の皇太子時代に日本を訪問した際、大津事件に巻き込まれ負傷した経験から日本人を憎悪し、ことあるごとに「猿」と蔑視していたそうで、今回の三国干渉で日本が遼東半島を返還した事で、増々日本を見下します。
ニコライ2世は「日本のごとき小国が大国ロシアに立ち向かう勇気はない。戦争は私が欲した場合にのみ起きる」と豪語し、日本に対して挑発的行動を繰り返し満洲における地歩を着々と固めていきました。
日本はロシアに対し満洲よりの撤兵を再三求めますが、ニコライ2世は聞く耳を持たず、同じくロシアの極東での勢力拡大を危惧するイギリスに接近、1902年に日英同盟を締結します。
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日露戦争の敗北と血の日曜日事件
1904年2月9日深夜、日本艦隊が旅順のロシア艦隊を宣戦布告なしで砲撃。日露戦争が勃発します。
日本艦隊は迅速に旅順のロシア艦隊をウラジオストクに放逐して制海権を獲得。同年5月、ロシア陸軍は鴨緑江で日本陸軍に敗北して奉天まで後退します。
ロシア軍増援部隊はアレクセイ・クロパトキン将軍の指揮で日本軍に包囲される旅順を解放しようと奮戦、日露とも膨大な損害を出しますが1905年1月に旅順が日本軍の手に落ちます。
直後に旅順艦隊に対する日本軍の砲撃が開始され極東艦隊は壊滅しました。
勢いづいた日本陸軍は奉天のロシア軍にも攻撃を開始。砲弾を撃ち尽くして戦闘継続不能に陥るも、ロシア軍を奉天から退却させました。ニコライ2世が望みをかけた自慢のバルチック艦隊も極東に到着したばかりの5月27~28日に行われた日本海海戦で連合艦隊に殲滅、日露戦争の帰趨は決しました。
ニコライ2世の誤算は、ロシア本国が戦闘地域からより遠く日本よりも補給に時間が罹った事。開戦初期、ロシア軍29個軍団のうち極東にいたのは2個軍団のみで他の部隊は、単線のシベリア鉄道に揺られ戦闘地域に到着するまで数ヶ月を要した事、ロシア陸軍の指揮官同士の関係が険悪で連携が取れなかったことなど多岐にわたります。
日露戦争初期の日本の優位は、このロシア軍の初動のまずさに乗じたものでした。
ニコライ2世が大量の軍需物資を極東に送った結果、ロシア国内では食糧事情が悪化。1905年1月には食糧不足に抗議したペテルブルクの市民・労働者10万人がデモを起こしますが、軍と警察が容赦なく発砲し、2000から3000人の死者・負傷者を出す血の日曜日事件が発生します。
自国民相手に平気で銃弾を発射するニコライ2世に対し、300年近くロシア人が持っていた「人民の父なる皇帝陛下」のイメージは急速に色あせていきました。
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十月宣言の屈辱
日露戦争はロシア側の完全な敗北という形で終結し国内の騒乱は続きます。10月には、都市労働者が仕事を放棄して抗議するゼネストにまで発展しました。大規模なゼネストの背後には、資本家の搾取から労働者の権利を守れと主張する社会主義者の活躍があったようです。
日増しに増大するロマノフ帝国への不満に対し、政治家ヴィッテはこれ以上の専制政治はニコライ2世を危うくすると考え、立憲君主国へとロマノフ帝国をシフトさせる事を目指し、十月宣言を提出します。
十月宣言は、元々、9月の地方議会ゼムストヴォが出したニコライ2世への要求で、基本的民権の承認、集会の自由、祭儀の自由、政党結成の許可や、国会開設の要求、それに向けて普通選挙を開始する事が明記されていました。
ニコライ2世は「王権は神に与えられた誰にも侵す事が出来ない神聖なる権利」と考える、あまりに時代錯誤な「王権神授説」の信奉者で、十月宣言を飲む事は神への背信であると激しく反対しますが、他の手段を講じる軍事力が不足している事から断腸の思いで宣言に署名します。
しかし、ニコライ2世は直前に皇帝独裁を保存する憲法を発布して、国会の解散権や閣僚の罷免権は保持する抜け目なさを示していました。
国会は開催されたものの、あまりに自由主義的であるとしてただちに皇帝大権で解散。その後も、自由主義的な首相が登場したり国会で自由主義者が当選すると首相をクビにし、国会を解散するなど皇帝大権をフル活用します。
やがてニコライ2世は、選挙法を逆行させ高額納税者だけに被選挙権を与えたので、成立した国会は大貴族やブルジョワジー議員ばかりになり、庶民の意見は採用されなくなります。
十月宣言は、ロマノフ帝国が立憲君主国として生まれ変わる最後のチャンスでしたが、ニコライ2世は自分の意志でこれを踏みつぶしてしまったのです。
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パン=スラヴ主義を推進し第一次世界大戦を招く
日露戦争の敗北によって東アジア進出に失敗したロシアは再びバルカン半島方面での勢力拡大へと向かいます。
しかし、今度は直接武力に訴えず、ロシアと同じスラヴ系民族との連帯を掲げるパン=スラヴ主義を進めました。これに対しオーストリアはパン=ゲルマン主義を標榜。ドイツもオーストリアを支援しバルカン問題が深刻化します。
ロシアはドイツ・オーストリアとの対立が明確となったのでイギリスと結んで英露協商を結び、フランスとも秘密軍事同盟を締結。これにより、英仏露という三国協商(連合国)が形成されます。
またロシアは日露戦争から一転し、日本と満州の利権を分割する日露協約の締結に到りました。
ニコライ2世は、帝国主義列強の世界分割協定に加わり、列強間の秘密軍事同盟を締結して勢力均衡に努めますが、一方のドイツ・オーストリア三国同盟を軸とした陣営との対立が激化し第1次世界大戦に突入します。
当時、ロシアは都市労働者のゼネストが起き、国内の社会矛盾は深刻でしたが、ニコライ2世は対外戦争の勝利で大衆の目を外に向けることで沈静化を図ろうとします。
1914年6月、スラブ系であるセルビア人青年が、ゲルマン系のオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子、フェルディナント大公夫妻を暗殺します。
これを受けて、オーストリア=ハンガリー帝国がセルビアに宣戦布告するとセルビアと同じくスラブ系のロシアは、パン=スラヴ主義の立場からセルビア側に立ち軍隊に動員をかけます。
それに対し、オーストリアを支援するドイツがロシアを非難して最後通牒を発しました。
ロシアはそれに対して8月1日にドイツに対しても宣戦布告し、世界は第一次世界大戦に突入しました。
欧州には、スラブ系、ゲルマン系、ラテン系、バルト系など多くの民族がモザイクのように混在しています。そして多民族国家も多く存在していたので民族間の軋轢も多く、ロシアのような大国が独立を煽る事でたやすく民族紛争が起きるのです。
しかし、近代化に立ち遅れたロシア軍は、鉄道も未整備で士気も低くドイツの東部戦線タンネンベルクの戦いで大敗。戦争は長期化します。戦争の長期化が、さらに民衆生活を圧迫、ロシア社会の矛盾を深くし1917年のペテルブルクの暴動をきっかけに第二次ロシア革命が勃発しました。
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ロマノフ帝国の終焉
こうした状況下、ニコライ2世と妻のアレクサンドラは皇太子アレクセイの血友病を治療した怪僧ラスプーチンに心酔、ラスプーチンは寵愛を受けて引き立てられ、政治に口を挟むようになりました。
さらに、ニコライ2世はラスプーチンの進言で思わしくない戦況を激励すべく総司令官として首都ペテログラードを離れ、政治はラスプーチンと皇后アレクサンドラに任されます。
元々、アレクサンドラは敵国ドイツ人であり慈愛が深い性格ながら社交的ではなく、ロシア人の人気がない上に、当人も生真面目なだけで政治家向きではなく、政治判断はラスプーチンに任せきりで、自分とラスプーチンを批判する閣僚をクビにするなど失政が目立っていました。
この状況下で、二月革命が起こり、さらに3月8日には首都ペトログラードでも暴動が起こります。
ニコライ2世は首都の司令官に断乎たる手段をとるよう命じ、秩序回復のために大本営から首都へ軍が差し向けられますが、内閣は総辞職し軍に支持された国会は皇帝に退位と譲位を要求しました。
1917年3月15日ニコライ2世は、最終的にはほとんどすべての司令官の賛成によってプスコフで退位させられます。
この時ニコライ2世は帝位継承法の規定で本来ならば後継者として予定されていた皇太子アレクセイではなく、弟のミハイル・アレクサンドロヴィチ大公に皇位を譲ります。
しかし、ミハイル大公は第1次世界大戦に従軍し、庶民のロマノフ帝国への憎悪を知っていて、再三に渡り兄のニコライ2世の専制政治に警告を発していたので、これを拒否しました。
ここに1613年から304年続いたロマノフ朝は幕を閉じ、ロマノフ家の人々は庶民に落されます。
ニコライ2世と家族は処刑される
ニコライ2世元皇帝一家は、臨時政府によって自由を剥奪され、ツァールスコエ・セローに監禁されました。
英国君主とも血縁関係が強い一家を同盟国でもあるイギリスに亡命させる計画もあったものの、ペトログラードのソヴィエトを中心として反対論が強く、1917年8月、妻や5人の子供とともにシベリア西部のトボリスクに流罪となります。
さらに、ボリシェヴィキによる十月革命がおこってケレンスキー政権が倒され、ソヴィエトが成立すると、皇帝一家はウラル地方のエカテリンブルクへ移され、イパチェフ館に監禁されました。
館は高い塀と鉄柵で覆われた上に全ての窓がペンキで白く塗り潰され、皇帝一家は外部との接触を禁じられ厳しく監視されていましたが、互いに協力しあって生活を送ります。
ニコライ2世も、出来るだけ平素と変わらないように暮らし死の4日前まで日記を書き続けていたそうです。
元皇帝一家の監視をしていたアナトーリ・ヤキモフは、ニコライ2世が、大分老けて、白髪も増えたが、穏やかで優しい目をし常に温厚で、単純素朴で気の置けない人柄に見えたと回想しています。
監禁が続いていた元皇帝一家の運命を決めたのは、王党派の白軍がエカテリンブルクに近づいた事でした。ソヴィエト委員会はニコライ2世が白軍により奪回されることを恐れ、急遽ロマノフ一家全員の処刑を決定します。
1918年7月17日午前2時33分、元皇帝一家7人とニコライ2世の専属医、アレクサンドラの女中、一家の料理人と従僕の合計11人はイパチェフ館の地下で銃殺され、ロマノフ家直系の血筋は絶えてしました。
世界史ライターkawausoの独り言
ロマノフ帝国は、イヴァン雷帝死後の皇帝空位時代に大貴族が国の事も考えず私利私欲で内戦を続け、ポーランドのモスクワ侵攻を受けた事による衝撃から当時の大貴族と人民が団結し、強力な皇帝を望んで誕生しました。
初代ロマノフ1世以来、歴代皇帝は大貴族の影響力を削減し、皇帝に直属する官僚による中央集権政治を目指しますが、その土台となるのは大貴族が私有する膨大な数の小作人、農奴であったため、農奴の身分を解放する事が出来ず、欧州諸国が立憲君主国へ移行し、国民国家を成立させ資本主義が発達していく中でも、半封建的なツァーリズムが継続します。
その後、クリミア戦争での敗北などで、近代化を痛感したロマノフ帝国は、上からの改革を継続、なんとか専制体制を維持し近代国家に生まれ変わろうと努力しますが、日露戦争での敗戦でそれも不可能になり、最後の皇帝ニコライ2世は国会の開設や議会政治を容認しました。
しかし、ニコライ2世は皇帝大権を手放す事はなく王権神授説に固執し、国会や内閣に干渉して民主化を弾圧、偉大なロマノフ帝国の幻想を追い続け、バルカン諸国の民族問題に口を挟み、ロマノフ帝国を壊滅に導く第1次世界大戦に道を開いてしまうのです。
ニコライ2世は歴史が得意だったそうですが、大貴族と人民の総意でロマノフ帝国が成立した経緯を深く理解していれば、人民を苦しめ負担を強いる世界大戦への参加を踏みとどまる事も出来たかも知れませんが、結果はそのようにはなりませんでした。
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