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劉備のボディガード 五虎将軍趙雲
趙雲は字を子龍と言います。
当初は公孫瓚の配下でしたが、同じく公孫瓚の配下だった劉備と意気投合しました。趙雲はその後、兄が死んだので喪に服すために公孫瓚の陣営を離れ、劉備にも別れの挨拶をしますが、その後、偶然劉備と再会し正式な部下となります。
趙雲は身長184㎝で、眉が太く目が大きく四角いアゴを持つ偉丈夫として描かれ涯角槍と呼ばれる3mの槍を得物として自在に扱いました。
そんな趙雲の見せ場は敵の豪傑との一騎打ちではなく、劉備の後継者である阿斗を懐にいれて、たった一騎で曹操の大軍を横断した趙雲の一騎駆けです。劉備の後継者を命懸けで守った事から趙雲は特に劉備に信頼され、最強のボディガードとなりました。
趙雲の地位は、関羽、張飛、馬超、黄忠に比較して2ランク以上低く、活躍の割に恵まれないポジションですが愚痴を言う事なく真面目に働き続け、五虎将軍では最期まで生き延び、孔明の第1次北伐に参加しています。
第1次北伐において、趙雲は鄧芝と共に魏の曹真の軍勢と戦いますが、曹真の軍勢は強く、趙雲と鄧芝は大兵力ながら押されて退却する事になりました。
これだけ見るとカッコ悪いですが、趙雲は責任を感じて自ら最後尾を守り、軍が崩壊しないよう粘り強く防衛、おまけに貴重な補給物資もほぼ捨てずに撤退します。
結果は敗北で趙雲は鎮東将軍から鎮軍将軍に降格となりましたが、可能な限り奮闘したと言えるでしょう。趙雲の最期については、特に記載はなく西暦229年に70歳前後で病死したとされています。
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実は一度も勢ぞろいした事がない五虎将軍
五虎将軍は、三国志演義の脚色で正史三国志において、関羽、張飛、馬超、黄忠、趙雲が五虎将軍と呼ばれた事はありません。それ以前に五人は揃った事さえなく、関羽は「馬超とはどんな人ですか?」と蜀の孔明に手紙を出しています。
その後、関羽は蜀に向かう事なく、曹操と結んだ孫権によって殺されるので、ついに五虎将軍が勢ぞろいする事はなかったのです。
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三国志ライターkawausoの独り言
今回は三国志演義をベースに残念な最期を迎えた五虎将軍を解説しました。
五虎将軍の最期は演義と正史で少し異同があり、寿命が延びた馬超や黄忠のケースもありますが基本は同じです。暗殺、病死、斬首と残念な最期が多い五虎将軍ですが、その時代が乱世である事を考えると、過酷な時代を精一杯生きて壮絶な最期を迎えたと考える事も出来ますね。
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