戦国の世に手生き残るために必要なものは何でしょうか。武勇か、知略か、家柄か、友情か、それとも時の運か。いいやそうじゃない、それは空気読みパワーである!
何だかんだ許されたって、後に「君、僕のお兄ちゃん殺したのに良くもまあ何度も会いに来れるね?」とか言われて死んじゃうことだってあるんです。……ということで、今回のお話は空気が読めなかった男、文欽のお話をしましょうか。
この記事の目次
魏諷の乱に関与したが親父のお陰で許された文欽
文欽の父親は文稷といい、曹操に仕えていました。文稷についての記録はほぼないのですが、武勇に優れ、曹操の元で功績を立てていたようです。
それが分かるのが219年に起こった魏諷の反乱でのこと。この際に文欽は連座して処刑されそうになりましたが、曹操が父親の功績に免じてその罪を許したそうです。因みに文欽の武勇も父親に負けず劣らずのものであったとか。
圧倒的小物で頭も悪かった文欽
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ジュニアと武勇以外の長所がない文欽
さて、文欽。この武将について良い評価が書かれているのはここまで、といっても過言ではありません。
まだ冒頭も冒頭じゃないか、と言われたら本当にそうなのですが、彼の記録で良いことが書かれているのが本当にこの「武勇に優れていた」くらいしかないのが悲しい所。
もう一つ良い所を挙げるとするならば、彼の息子はかの有名な「文鴦」である、ということくらいでしょうか……。
息子(変な意味ではない)が立派な文欽
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個人的な恨みで司馬氏に叛く圧倒的小物感!
そんな武勇には優れていた文欽ですが、同時に気性が荒くて礼節を弁えない性格だったようです。まあそれくらいなら他にも良くある……と言いたい所ですが、文欽は更に上司を馬鹿にするわ法にそわないわとろくでもない性格で「周囲から憎まれていた」と記録されるほど。
何せ後に対司馬師で手を組む毌丘倹ですが、?丘倹は「司馬師の専横に不安を感じ」とされるのに対して文欽は「戦功を水増し報告したけど認められなかったから」というほぼ逆恨みから司馬師とは対立していたようです。
うーん、本当に性格がよろしくない。
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呉の嫌われモノ孫峻とは意気投合
後に、文欽は息子たちを連れて毌丘倹の反乱に参加。ここでは息子の文鴦が活躍するのですが、文欽の働きはどうにもパッとしない……というか、行動が遅れて京劇に失敗するという失態まで犯してしまい、最終的には呉に落ち延びることになります。
しかし呉でもその性格は変わらず、諸将からは「憎悪された」とまで言われるも不思議なことに孫峻からは気に入られたようで、割と厚遇されます。しかしその最期は、何ともあっさりしたものとなりました。
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