武将たちを陰で支えた人物たちは多いでしょう。それこそ、無数の配下である無名の人々も、武将たちを支えていた人物と言えます。ただ今回は、妻という立場から夫を支えた人物を紹介したいと思います。
その中でも紹介するのは、容姿に付いて色々な憶測を呼んでいる黄夫人こと黄月英。諸葛亮の妻として名高い彼女に付いて、ちょっとお話しましょうか。
この記事の目次
黄月英の本名は不明
さて、黄夫人と言えば「黄月英」としての方が聞き覚えがあるでしょうか。また「黄婉貞」という名前を聞いたことがある、という人もいるかもしれません。
実はこれらの名前は、史書に記録されている名前ではありません。あくまで史書では黄夫人、父親が黄承彦ですから黄家からやってきた夫人、ということになります。ただし、諸葛亮の妻であることは間違いありません。
黄月英と美の基準
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黄月英が当時の美の基準から外れていたという黄夫人の逸話
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うちの不細工娘をもらってちょ!by黄承彦
正史にはこんな記録があります。
ある日のこと、名士・黄承彦が諸葛亮の所を訪れました。
「君が妻を探していると聞いたよ。私には娘がいるんだ」
「それはそれは」
「娘は赤い髪の毛で色黒で、容貌こそ醜いが大変な才女で君とお似合いだと思う」
……父親が娘を紹介するにしてはちょっとどうかという話ですが、諸葛亮は容貌などは気にしないということで、黄承彦は娘を諸葛亮に嫁がせたと言います。
多才だった黄月英
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諸葛孔明はブス専と噂が流れる
そしてこの話は人々の間に広がりました。もちろん良い方向にではありません、寧ろ笑い話として広まり、詩まで出来ました。
「孔明の嫁選びを真似するな」
「阿承の醜い嫁を押し付けられるぞ」
阿承とは黄承彦のことですね。
とりあえずこの歌が人々に広まるほど、諸葛亮の嫁取り物語はよろしくないもの、として残されてしまったというのです。
黄月英は不細工だった?
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黄月英は当時の価値観だと美人に見えないだけ説
何とも酷いエピソードに思えますが、この黄夫人については実は美人説があります。
・色黒で赤毛と言う当時の美の基準から外れていただけ
・賢くて美人だったからわざと不美人を装っていた
・そもそも肌色と髪色にしか触れていないから顔自体は美人だったかも
というようなものが主流ですね。
しかしここでもちょっと疑問が残るのです。
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ブス説のみ広がり才女説が広がらない理由は?
記録と言うのは全く事実無根ということはないでしょう。しかし唯一の黄夫人の記録と言えば、孔明の嫁選びを真似するな、の記録のみ。実は美人だった、才女だった、そういった話が、地元ですら広まっていないのです。
というか嫁と娘の不名誉な噂を放置するってどういうことだ?
……と、考えた所である考察に辿り着きました。ちょっと筆者の考えを聞いて頂きましょうか。
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美女は争いのタネになる
さてさて三国志演義の話で恐縮ですが、赤壁の戦いの前のこと。開戦を渋る呉の将たちを焚き付けるために、諸葛亮は周瑜にある話をします。
「曹操は美人と名高い二喬を奪おうとしていると聞きました」
二喬とは言わずと知れた孫策の妻、大喬と、周瑜の妻、小喬のこと。
美女と名高い二人を曹操が手に入れようとしていると知った周瑜は激怒、赤壁の戦い、というのがざっくりとした流れでしたね。美女は時として戦の理由となるのです。
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