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諸葛亮の北伐は雨に笑い、雨に泣いた?天候に左右された北伐の逸話

2022年10月31日


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北伐する孔明

 

「六出祁山(リョウチューチーシャン)」という言葉をご存でしょうか?

 

進軍する兵士b(モブ用)

 

これは中国における諸葛亮(しょかつりょう)の北伐を意味していて、簡単に言えば6回祁山(きざん)に出兵したということです。しかし、ここで2つツッコミどころがあります。それは、毎回祁山に出兵していたわけではないという点と北伐の回数です。

 

曹真 vs 孔明

 

前者の問題は置いておくとして、後者については第三次と第四次北伐の間に曹真(そうしん)が漢中へ侵攻してきた分もカウントしているため6回となっています。

 

四輪車に乗る孔明

 

今回はそんな「第3.5次北伐」を含めた諸葛亮の北伐における雨のエピソードを紹介していきます。

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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雨に救われた第3.5次北伐

曹叡に蜀を征伐することの必要性を説く曹真

 

230年、曹真は明帝(めいてい)に対して漢中の攻略を上奏しました。侵攻の理由は諸葛亮が第一次北伐に始まり、連年のように国境を侵しているため、蜀漢の前線基地である漢中を奪うというものです。

 

張コウ 張郃

 

後主伝によれば曹真が斜谷から、張郃(ちょうこう)子午谷(しごこく)から、荊州(けいしゅう)にいた司馬懿(しばい)が西城から三路で攻めてきたとあります。

 

魏志(魏書)_書類

 

ただ、張郃伝にはその記載がなく、曹真伝には曹真自身が子午谷から進軍をし、ある部隊が斜谷と武威から進軍したとあるので、実際は四路作戦だったのかもしれません。

 

大船団を率いて呉を攻める王濬(おうしゅん)

 

この作戦において司馬懿は、陸路と水路を使って巴東へと進軍しました。水軍は漢水を遡上し、陸軍は魏興郡(ぎこうぐん)にある西城県から山を切り開いて進み、胊忍(しゅんじゅん)県に到達。そして、新豊県を攻略しますが、丹口(たんこう)という場所に宿営している際に長雨に当たってしまいます。

 

雨の中進軍する曹真

 

曹真も同様に南鄭(なんてい)で落ち合うという約束で南進を開始しますが、30日以上続く長雨に当たってしまいます。

 

諸葛亮の北伐に苦戦する曹真

 

山道を進軍していた曹真は桟道が崩れるなどの被害が発生したことにより進軍が困難に。そこで明帝に上奏して退却をしました。この時、全軍が退却をしたのか、それとも雨の影響がなかった武威からの軍は進軍してきたのかは記載がありません。

 

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曹真

 

 

魏延の羌中入り

魏延

 

雨とは関係ありませんが、曹真が攻めてきた同年に魏延(ぎえん)呉懿(ごい)とともに羌中に入っていて、南安郡にあるとされる陽谿(ようけい)という場所で郭淮(かくわい)費耀(ひよう)を破っています。

 

三国時代の弓兵(兵士)

 

羌中とは現在の臨潭(りんたん)県、チョネ県一帯を指していて、当時は隴西郡(ろうせいぐん)にありました。南安と隴西は隣り合っていて、ともに武威の南にあることから、武威から進行してきた敵軍の迎撃を行ったとも考えられます。

 

羌族

 

仮に時期がずれていたのであれば長安からの援軍は来ないことが予想されるので、そのスキに羌族(きょうぞく)氐族(ていぞく)を帰順させるために魏国領内の奥地へと侵入したのかもしれません。いずれにしても、魏の主力が長雨によって進軍が困難になったことで未曾有の危機は救われたのでした。

 

水滸伝って何? 書類や本

 

ちなみに晋書五行志(しんじょごぎょうし)によれば「魏太和四年八月,大雨霖三十餘日,伊、 洛、河、漢皆溢,歲以凶饑。」と記載があり、この年は各地域で河川の氾濫が起こり、食料がなくなったことが伝えられています。

 

祁山、街亭

 

益州(えきしゅう)は夏場に雨が多くなりますが、この年は特殊な気候だったようなので、曹真はただただ不運だったとしか言いようがありません。

 

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雨に泣いた第四次北伐

北伐を結構する孔明

 

曹真の侵攻があった翌年、諸葛亮は4度目の北伐を開始します。目的地は因縁の地である祁山です。

 

孔明 vs 司馬懿

 

この北伐は比較的順調で祁山を包囲しながら、別働隊の司馬懿らを諸葛亮自らが釘付けにし、焦れて攻めてきた魏軍を破っています。戦果は敵兵の死者3000人、獲得した(よろい)は5000、(いしゆみ)は3100張にも及びました。

 

司馬懿と諸葛亮孔明のトランプ勝負

 

もともとは春に出陣した諸葛亮でしたが、長期戦によって季節は夏へと変わっていました。前年には長雨によって魏の侵攻が失敗に終わりましたが、この年はそれが諸葛亮に返ってきたのです。

 

長雨にあたり食料の輸送が間に合わず孔明にバレることを怯える李厳

 

食料など物資の補給をしていた李厳(りげん)は長雨によって物資の輸送が困難となり、諸葛亮に撤退を進言します。

 

青州兵(兵士)

 

諸葛亮はこれに従いましたが、蓋を開けてみれば局所的には勝利を収めたものの、祁山を制圧するという目的は果たせないままという中途半端な戦果に終わりました。

 

庶民に落とされた李厳

 

その後、李厳は撤退の責任を諸葛亮に転嫁しようとします。これに対して諸葛亮は、李厳が先ごろから己の利益のためだけに動いていた旨を上奏し、李厳の罪を明らかにしました。

 

木牛流馬を使用する蜀兵士

 

食料の輸送が遅れた原因は本当に雨だったのか、李厳の職務怠慢によるものなのかはわかりません。ただ、麦や米が実る夏から秋にかけて雨が多くなるという益州の気候は、遠征をする上で致命的だったと言えるでしょう。

 

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北伐の真実に迫る

北伐

 

 

三国志ライターTKのひとりごと

TKさん(三国志ライター)

 

雨つながりで面白いと思ったエピソードを1つ紹介します。

 

司馬懿と魏延

 

三国志演義(さんごくしえんぎ)における諸葛亮は、北伐の際に反骨の相があり後の禍となる疑いのあった魏延を、司馬懿もろとも火計で葬ろうという計画を立てます。

 

魏延と孔明

 

自身が殺されるとは知らない魏延は、作戦どおり司馬懿を誘導しながら葫蘆谷(ころこく)へ差し掛かります。すると轟音(ごうおん)とともに周囲に火の手が上がり、司馬懿と魏延を焼き殺そうとしますが、あと一歩というところで雨が降り火は鎮火。

 

挑発する諸葛亮孔明

 

怒りに震える魏延が諸葛亮を問いただすと、諸葛亮は馬岱(ばたい)に責任を押し付けて、その場を収めるのでした。正史では雨を理由に責任転嫁をした李厳ですが、演義では諸葛亮が雨によって部下に責任転嫁をしなければならなくなっています。意図があったとは思えませんが、皮肉っぽい話だなと思いました。

 

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TK

KOEIの「三國無双2」をきっかけに三国志にハマる。
それを機に社会科(主に歴史)の成績が向上。 もっと中国史を知ろうと中国語を学ぶために留学するが 後になって現代語と古語が違うことに気づく。


好きな歴史人物:
関羽、斎藤一、アレクサンドロス大王、鄭成功など

何か一言:
最近は正史をもとに当時の文化背景など多角的な面から 考察するのが面白いなと思ってます。 そういった記事で皆様に楽しんでもらえたら幸いです。

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