徐晃は魏(220年~265年)の将軍です。後漢の車騎将軍の楊奉に仕えていましたが、曹操の将来性に目をつけて主君替えをします。
袁紹・関羽などの討伐で功績を挙げたので曹操から前漢(前202年~後8年)の周亜父に例えられました。周亜父は劉邦の部下の周勃の子であり、前漢の呉楚七国の乱を鎮圧した名将です。
さて、今回は正史『三国志』と小説『三国志演義』のに記されている徐晃の死因について解説します。
小説『三国志演義』での死因 孟達により射殺
魏の太和元年(227年)に魏の孟達は蜀の諸葛亮と内通して謀反の計画を立てました。
孟達はかつて劉備に仕えていましたが、関羽に援軍を送らずに見殺しにしたので処罰を恐れて魏に降伏しました。
曹丕からは重用されましたが、その曹丕も黄初7年(226年)に亡くなり曹叡に代替わりしました。代替わりするとお気に入りの部下も代わるものです。
孟達は自分の将来に不安を感じたので、また蜀に戻る決意をして謀反を企みます。孟達はその話を部下の申耽・申儀兄弟に話すも、彼らは孟達の謀反に反対であり、すぐに司馬懿に密告。
司馬懿は孟達が蜀と連携する前に、彼を取り押さえに向かいますが道中で徐晃に出会います。司馬懿から孟達謀反の話を聞くと、徐晃は先鋒として打って出ます。徐晃は孟達の城を囲むと降伏勧告を行いました。
ところが孟達は負けじと徐晃に目掛けて矢を一発。矢はなんと、徐晃の額に命中。徐晃は孟達と刃を交えることなく、あえなく即死しました。豪傑にしてはなんとも惨めな最期です。
正史『三国志』での死因 病死
もちろん、上記の話は小説『三国志演義』の虚構。
『三国志演義』は蜀正統論に立って記述されているので、魏や呉(222年~280年)の人間に対しては扱いが厳しいのです。それでは史実の徐晃の死因はどうなっているのでしょうか?
徐晃は太和元年(227年)に病死しています。曹操に仕えたことに対して満足しており、「古代の人々は名君に出会いないことを心配しているが、私は幸いにも名君(曹操)に会うことが出来た」と言い残しました。
病気が悪化するにつれて季節に合わせた衣服を着るようになったそうです。性格が質素倹約だったのでおそらく衣服に金をかけていなかったのでしょう。考え方によっては、普段から場違いな衣服を着ていた可能性も推測されます。
ただし、筆者は政治的パフォーマンスと考えています。後漢(25年~220年)末期は極度の質素倹約や親孝行をわざと人に見せびらかすことで政治評価を上げてもらうことが当たり前の時代でした。
劉虞はボロの衣服と靴を身にまとっており、民と同じ立場にいることで評判が非常によかったのですが、公孫瓚に討たれて屋敷の家宅捜索が行われると驚愕の事実が発覚。
屋敷には財宝があり、妻妾は豪華な衣服を飾りを付けていたとのこと。つまり、劉虞は民をだました偽善者でした。正史『三国志』には「質素倹約」・「死後、財産が無かった」という記述は結構出ますが、これは全て割引いて読む必要があります。
おそらく、徐晃もタンス預金ぐらいはしていたと推測されます。
三国志ライター 晃の独り言
以上が徐晃の死因に関しての話でした。筆者は中学時代に横山光輝氏の『三国志』を読んでいて、徐晃が孟達に殺されるシーンを見た瞬間、びっくりしました。
「あれだけ強かったのに瞬殺かよ!」
嫌な気分になりましたね。ちなみに今では信じられないのですが、筆者の中学時代は今ほど三国志ブームが無かったので、クラスで三国志や無双シリーズの話をしてもドン引きされることが多かったのです。
時代は変わりましたね(笑)
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