董卓が洛陽から長安に引越しした本当の理由は何?どうして[洛陽をキャンプファイヤーした?]

2023年2月20日


董卓

 

董卓(とうたく)後漢(ごかん)(25年~220年)の群雄の1人です。

 

董卓

 

元々、涼州(りょうしゅう
)
を治める地方官の1人に過ぎませんが、後漢第12代皇帝の霊帝(れいてい)が亡くなったことを契機に、首都の洛陽(らくよう)に訪れて政治の実権を握ります。非常に暴虐な行為が多かったので民は苦しめられました。

 

ヘソにろうそくを刺される董卓

 

しかし、最期は養子の呂布(りょふ)と仲違いをしてしまい殺されました。董卓は遷都(せんと)を行ったことで知られています。

 

「せんと」と言っても、あの有名な奈良県のゆるキャラではありません・・・・・・ってそれは、せんとくんだ!

「お巡りさん、独りごとブツブツと呟いている危ない野郎がいます」

待ってください。真面目にしますので、警察だけは勘弁してください。

 

開始早々、読者の皆様から警察に通報されそうになった筆者でしたが話を戻します。

遷都(せんと)は字の如く、都を他の場所に移すことです。

 

袁紹と献帝と董卓

 

董卓は洛陽(らくよう)から長安に移動させたのです。その経緯はどのような内容でしょうか。

今回は董卓の長安遷都(ちょうあんせんと)について解説します。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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董卓討伐軍の結成

橋瑁が決起文を送り反董卓連合軍結成

 

初平(しょへい)元年(190年)に袁紹(えんしょう)袁術(えんじゅつ)橋冒(きょうぼう)を筆頭に諸侯が董卓討伐軍を結成しました。討伐軍といっても、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』のように諸侯が一斉に集まっていたわけではありません。

 

袁術

 

実際は諸侯が好き勝手な行動をとっていたようです。また、率先して董卓に立ち向かう諸侯もほとんどいなかったようです。

 

苛ついている曹操

 

立ち向かったのは曹操(そうそう)王匡(おうきょう)等の少数でした。しかし、そのような勇猛な人たちはみんな敗れてしまいました。

 

 

 

董卓の長安遷都計画

董卓に強引に連れられる献帝

 

董卓は各地の諸侯が蜂起したことを耳にすると恐れました。急いで会議を開いて董卓は洛陽から長安に遷都して、後漢第14代皇帝献帝(けんてい)を守ることを提案しました。

 

楊彪(ようひょう)

 

しかし楊彪(ようひょう)は、「うかつに遷都することは、反対に混乱を招くだけです」と反対しました。

 

楊彪を司空に任命させる董卓

 

董卓は説得しますが楊彪は引き下がりません。最後の切り札として、「私のもとに辺章(へんしょう)韓遂(かんすい)から長安遷都賛成の手紙が来ています」と言います。

 

韓遂

 

辺章と韓遂かんすい)は当時の後漢を悩ませていた西方の暴れ者です。韓遂は後に馬超(ばちょう)と組んで曹操と戦う人です。まるで、「俺のバックにはヤ〇ザの知り合いがいるんだぜ!」という通りすがりのヤンキーレベルです。

 

董卓

 

それでも楊彪は反対するので、遂に董卓は楊彪を罷免して遷都を強行的に実行しました。

 

 

関連記事:董卓ってどんな政治をしたの?残虐行為だけじゃない!知識人登用に熱心だった董卓

 

 

董卓の長安建設計画

ミニチュアで遊ぶ董卓

 

こうして強行的に行われた遷都でしたが、董卓はこの長安に城を築きました。「郿城(びじょう)」と呼ばれています。城の高さは長安城と一緒と言われています。非常に眉唾な話なのですが、考古学が発達した近年に発掘されました。

 

董卓

 

残念ながら、まだ発掘は続いているので詳細は分かっていません。それにしても、そのような巨大な城をどうやって築いたのでしょうか。董卓は遷都前に「木材は自分の故郷の涼州から運ぶ」と言ってました。

 

董卓

 

これは推測なのですが、もし辺章と韓遂の繋がりが本当なら、彼らのツテでもらっていたのかもしれません。董卓は攻め込まれても大丈夫なように、城には30年分の食糧を詰めていたようです。

 

兵糧庫の中を一杯にした任峻

 

30年分というのは想像がつきません。そんな貯蔵庫がどこにあったのでしょうか。筆者は後世の創作と推測しています。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が董卓の遷都計画についての記事でした。

 

呂布に暗殺される董卓

 

董卓は遷都から間もなくして、呂布の手により殺されました。

 

李傕・郭汜祭り

 

また、董卓の死後は彼の残党が政治党争を行ったので長安は荒廃して発展することはありませんでした。

長安が発展するのは後の(ずい)(581年~618年)になってからのことです。

 

▼こちらもどうぞ

袁紹と何進はなぜ董卓を都へ招集したの?後漢王朝の命運を絶った大愚挙

 

 

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晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

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