章武3年(223年)に蜀(221年~263年)の初代皇帝の劉備はこの世を去りました。後を継いだのは、息子の劉禅です。
後主とも呼ばれていますが、劉禅という呼び方が有名なので、この記事では劉禅で通します。蜀はこの劉禅の代で滅亡することになりますが、劉禅はどのような政治を行っていたのでしょうか。
今回は劉禅が行っていた政治方針について解説致します。
この記事の目次
諸葛亮存命時期(223年~234年)の政治政権
章武3年に劉備はこの世を去りました。遺言により、政治は諸葛亮・軍事は李厳に任せることになりました。
あれれ~おっかしよー!!
「どうかしたのかね、晃くん?」
だって、諸葛亮は劉備が死ぬ間際に、劉禅に才能が無かったら国を盗ってよいと言ったのでしょう。それなのに、実際は政治と軍事の担当が分かれているんだよ。
『名探偵コ〇ン』の真似と分かった読者が、どれほどいたか分かりませんが、こういう不自然なことが起きているのは事実です。一説によると、諸葛亮の南中(南蛮)戦は李厳から軍事権を奪うためのための戦と言われています。
また、諸葛亮が北伐の前に執筆した「出師の表」に登場する蜀の家臣の名前のほとんどが、諸葛亮の推薦者・直属の部下ばかりです。李厳の名は1個所も出てきません。
彼から権力を奪った証拠と推測されています。李厳は北伐では後方支援に回っており、最後は諸葛亮により平民に落とされました。さて、諸葛亮と李厳の話が長くなりました。
諸葛亮の北伐
諸葛亮の北伐はどうでしょうか。
1回目は馬謖の作戦ミスにより失敗。
3回目は大雨により兵糧が続かずに撤退。
4回目は李厳が兵糧補給の仕事を怠り、連係プレイが出来ずにまた撤退。
5回目は諸葛亮が途中で亡くなったので撤退。
全て失敗に終わりました。ほとんどが、兵糧不足や連携プレイの失敗です。これも全て諸葛亮が政治・軍事も1人で握っていたからでしょう。なお、この時期は劉禅が表に出ることはありません。
それでは、諸葛亮の死後はどうでしょうか。
諸葛亮死亡~費褘死亡まで(234年~253年)の政治政権
建興12年(234年)に諸葛亮は亡くなりました諸葛亮の死後は、蒋琬が後任になります。彼は戦はせずに、国力の温存に努めました。
ところが、延熙9年(246年)に蒋琬が亡くなったので、劉禅自らが国事を担当することになりました。ようやくここで、劉禅が登場です。
なお、蒋琬の後任は費褘です。劉禅と費褘は魏とは戦わずに、異民族に対して統治することをそそぎました。
ところが、延熙16年(253年)に費褘は偽って投降した魏の郭循に殺されました。これで劉禅と費褘の共同経営が破綻したのです。
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姜維北伐~蜀滅亡(253年~263年)の政治政権
費褘の死により台頭した人物がいました。姜維でした。姜維は諸葛亮の最初の北伐の時に降伏した人物でした。
それ以後従軍しており、諸葛亮の実質的後継者でした。姜維は諸葛亮の死後も北伐の継続を主張していましたが、周囲の人物は彼の意見に反対していました。
理由は国力が諸葛亮の行った北伐でほとんど尽きていたからです。結局、周囲と意見が合わずに孤立した姜維でしたが、費褘の死をきっかけに北伐を強行しました。当然、こんなことを劉禅が支持するはずがありません。
劉禅が望んだことは、あくまで安定でした。だから、安定を望んだ劉禅は政治に興味を失って宦官の黄皓の傀儡になったと言われています。
筆者は傀儡というよりも、姜維に対する反発をありのままの姿で表現していると推測します。
結局、姜維の北伐が成功することはなく、蜀は炎興元年(263年)に魏により滅ぼされました。
三国志ライター 晃の独り言
以上が劉禅の政治についての解説でした。
劉禅が気が合った人物は費褘だと分かります。もちろん、はっきりとした証拠はありません。ただし、姜維の北伐時期に劉禅の行動に関する記録が、ほぼ見られないことから姜維に対する反発があったと考えても間違いないと思います。
さて、降伏後の劉禅はどうなったのでしょうか。それはまた次の機会に執筆します。
※参考文献
・諸葛孔明 (図解雑学)
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