世の中には厳しいことを言う方も多いようで、三国志の一国、蜀にて劉備を継いだ劉禅のことを愚君と評価する人が後を絶ちません。彼の幼名である「阿斗」を暗愚の象徴のように使う人も後絶ちません。
のみならずまだ赤子だった劉禅を趙雲が救出した「長坂の戦い」の感動的なくだりも、「むしろ趙雲があそこで赤子を助けず見殺しにしておいたほうが後の蜀のためにはよかった」などという声さえ聞かれます。
実際、劉禅はそこまで暗愚だったのでしょうか。趙雲に救出されなかったほうが、蜀のためにはよかったのでしょうか?
この記事の目次
まずは史実の確認!蜀降伏時の劉禅の対応をおさらいする
劉禅が非難される理由を、『正史三国志』の蜀書から拾ってみましょう。
この文献によると劉禅は、「諸葛亮が生きている間は道理に従った君主であったが、宦官たちに惑わされるようになってからは暗愚な君主であった」とはっきり書かれている上に、「しょせん白糸はどうにでも染まるものである」と、部下によってどのような色にも染まってしまう、その主体性のなさにも言及しています。たしかにこれを見ると、リーダーの資質という点では疑問符がついてしまうのは正直なところ。
そして一番問題とされているのは、鄧艾と鍾会という二人の魏将が大軍で蜀に攻め込んできたとき、徹底抗戦を主張する武闘派たちを退けて降伏してしまったこと。
この降伏の際の劉禅は、自らわざわざ棺を背負って敵将と会見し恭順の意を示すという、どうにも情けないパフォーマンスを行い、
「私は不徳なものですが、先代(劉備)の遺産をむさぼり、この蜀の地に居座り続けてしまいました。本来ならばもっと早くあなた方にここを明け渡すべきところを申し訳ございませんでした」という恐るべし内容の降伏文書を提出したとされております。
世の中には厳しいことを言う方も多いようで、三国志の一国、蜀にて劉備を継いだ劉禅のことを愚君と評価する人が後を絶ちません。
彼の幼名である「阿斗」を暗愚の象徴のように使う人も後絶ちません。
のみならずまだ赤子だった劉禅を趙雲が救出した「長坂の戦い」の感動的なくだりも、「むしろ趙雲があそこで赤子を助けず見殺しにしておいたほうが後の蜀のためにはよかった」などという声さえ聞かれます。
実際、劉禅はそこまで暗愚だったのでしょうか。趙雲に救出されなかったほうが、蜀のためにはよかったのでしょうか?
こちらもCHECK
-
長坂の戦いの時、趙雲はどのくらい活躍した?二つの三国志を比較してみた
続きを見る
いっそのこと趙雲がスパルタに劉禅を戦場に放り出して鍛えていたら?
しかしよくよく劉禅の言動を振り返ってみましょう。
「白糸」のごとく何色にも染まるということは、彼には自分の「芯」というものがなかったということ。おそらく、典型的なお坊ちゃん育ち、苦労をしらない育ちをしてしまったがゆえ、主体性のない人格が彼に備わってしまった、ということではないでしょうか。そこで、こう考えてみましょう。趙雲が、阿斗こと赤ん坊時代の劉禅を、戦場から救出するのではなく、「阿斗様、あなたを救出することは、私には、できます。
ですがあなたも劉備様の後継者にいずれなられるお方なら、この程度の苦境は自力で脱出できるはず。小生はそれを信じて待っておりますぞ、御免!」と、敢えて戦場に放置していたら?
これが実は、後の蜀にとっても最高の対応だったのではないでしょうか?
こちらもCHECK
-
汚名返上できる?劉禅を評価できる逸話とは?
続きを見る
阿斗、地獄より生還す
この展開では、蜀の運命はどうなるか?
まず、長坂の戦いで放置された阿斗は、険しい自然の中、野獣たちに囲まれながらなんとか生き延びます。数年後、荊州の農民たちが、山で野獣と暮らしている不思議な少年を見つけ、拾ってくれるでしょう。知力も体力も申し分なく、山奥で野獣たちと共にサバイバルしてきただけに第六感が冴えわたる、この野生児は評判となり、
やがて「耳がやけに大きな不思議な少年」の噂が、劉備にも届きます。「耳がやけに大きい?もしや!」と、趙雲を派遣する劉備。数年ぶりに劉禅と再会した趙雲は、立派な少年になったその姿に涙し、「あの時はあえてあなたに厳しいことをしてしまいました。すべては蜀の未来の為のスパルタ方針。お許しくださいませ」と泣きながらその手をとって、劉備の元に案内するでしょう。
趙雲はその夜、すべての責任をとって自害。そのような哀しい事件がありましたが、野生の力を身に着けた劉禅は、頼もしい皇太子として、劉備の生前から各戦線に転戦し、奮迅の働きを示し始めます。
こちらもCHECK
-
長生きしただけで多大な貢献だった?趙雲さえも早世していたら蜀がどうなっていたか考えてみた
続きを見る
まとめ:武闘派劉禅の指揮のもとに蜀は決して滅びない?
やがて劉備が亡くなり、かような二代目に率いられることとなった蜀。
当然、劉禅は武闘派のリーダーとして、諸葛亮死後も姜維ら武闘派の諸将をもっぱら使いこなします。宦官たちの横行は早い段階で発見し、てきぱきと粛清してしまうことでしょう。
ただし、そんな劉禅が君主になったとしても、魏との国力差は、覆せるものではありません。遅かれ早かれ、鄧艾と鍾会の蜀侵入は起こることでしょう。ただしその後の展開が違ってくるはずです。
鄧艾と鍾会が率いる大軍に真正面から戦って勝てるはずもなく。劉禅は降伏文書を送ります。喜んだ鄧艾と鍾会が成都に入城すると、屈強な劉禅が、なぜか、二つの棺を両肩に背負って現れます。
鄧艾と鍾会が驚きつつ、「棺を背負ってお出迎えいただくとは恐縮です。降伏の恭順の気持ちが、我らにも伝わりましたぞ。それにしても、なぜ、棺を二つ抱えているのですか?」と質問すると、劉禅は、「もちろん、これは尊公ら二人のための棺だからに他ならぬ」と言い捨てる。
それを合図に四方から市街に潜んでいた姜維の部隊が出現。魏の大軍は狩られに狩られ、鄧艾と鍾会の首は劉禅本人によって切り落とされ、二つの棺に納められることでしょう。その後、劉禅は戦場と化した成都をあっさりと棄て、軍を連れて山中に脱出。
魏の軍勢が何度、遠征をしかけても、巧みなゲリラ戦でこれを翻弄するという、『三国志』というよりは『水滸伝』のような物語になるかもしれません。
こちらもCHECK
-
劉禅ってどんな政治をしたの?暗愚と呼ばれた君主の政治手腕を解説
続きを見る
【中国を代表する物語「水滸伝」を分かりやすく解説】
三国志ライターYASHIROの独り言
それでも、魏との国力差を考えると、けっきょく蜀が逆転して天下を獲るなどというのは夢のまた夢となりましょうが。いかがでしょう、ここまで戦い抜く、野生の皇帝劉禅、見てみたいと思いませんか?いささか無理がありますでしょうか?
こちらもCHECK
-
諸葛亮はどうして劉禅から国を奪わなかったのか
続きを見る