[驚愕の結末]赤壁の戦い、劉備・曹操・孫権が経験した事とは?

2023年7月12日


曹操

 

建安13年(208年)に曹操(そうそう)荊州(けいしゅう)を平定すると、すぐに()(222年~280年)の孫権(そんけん)と決着をつけるために南下しました。

 

魏曹操と魏軍と呉軍

 

しかし、孫権は劉備(りゅうび)と連合して曹操を大破しました。有名な「赤壁の戦い」です。この赤壁の戦いの結末は複数ありますが、今回は有名な火責め作戦の話を筆者は採用します。さて、この戦で劉備・曹操・孫権の3人はその後どうなっていくのでしょうか。

 

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。戦略設計から実行までの知見を得るためにBtoBプラットフォーム会社、SEOコンサルティング会社にてWEBディレクターとして従事。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


【誤植・誤字脱字の報告】 バナー 誤字脱字 報告 330 x 100



【レポート・論文で引用する場合の留意事項】 はじめての三国志レポート引用について



黄蓋の火責め作戦

むち打ちで裁かれる黄蓋

 

呉の将軍の黄蓋(こうがい)が虚偽の降伏文書を曹操に渡して曹操を信用させます。

 

奮闘する黄蓋

 

準備を整えた黄蓋は降伏すると偽って、大量の油を積んだ船で曹操の船に突っ込んでいきます。突っ込まれた曹操は、さあ大変。急いで逃げ帰ります。

 

周瑜、孔明、劉備、曹操 それぞれの列伝・正史三国志

 

これは一般的に知られている内容であり、小説『三国志演義(さんごくしえんぎ)』でも取り入れています。

 

黄蓋、赤壁の戦いでうっかり河ポチャ

 

ちなみに、突っ込んだ黄蓋は長江に落ち込んでケガをするのですが運んだ兵が、黄蓋と気付かずに便所に転がしておいたようです。

 

韓当(かんとう)

 

黄蓋が可哀そうです。不幸中の幸いにも同期の韓当(かんとう)が通りかかったので、助けられたようです。

 

 

 

曹操 負けてもプラス思考

蜀の劉備

 

負けた曹操は船を劉備にも焼かれてしまいました。仕方なく敗残兵を率いて華容道を通っていきました。ところが、道は泥でぬかるんでおり風は強い。曹操は弱った兵に草を持たせて、ぬかるんだ道を舗装させた。鬼だ、悪魔だ、ブラック企業だ、法的措置を・・・・・・と言いたいところですが、時代が時代ですので言えません。

 

結局、弱い兵は馬に踏みつぶされて死にました。どうやら、この逃避行で莫大な死者を出したようです。曹操はどうにか逃げ帰ってこう言いました。(翻訳は現代の人に分かりやすくしています)

 

曹操VS孫権 R2

 

「劉備は私と同レベルなんだけど、ただ、計略を考え付くのが遅いよね。先に私の行く所に火でも放てば全滅だったのに」

 

負けてもプラス思考な曹操でした。

 

 

劉備と孫権 荊州借用問題の始まり

曹仁

 

孫権は赤壁の翌年の建安14年(209年)に、南郡にいる曹仁(そうじん)を破りました。ここから劉備と孫権の間で、ある問題が発生します。

 

「荊州借用問題」です。荊州は戦略上、重要な土地です。曹仁を破った同年に劉備は勝手に兵を動かして、荊州の西部・南部に当たる武陵郡・零陵郡・桂陽・長沙郡をとりました。ただし、長沙郡を除いた3つは重要ではありません。

 

周瑜

 

問題は勝手に兵を動かしてとった事です。周瑜(しゅうゆ)はこの機会に、劉備を拘束するべきと主張しました。一方、魯粛はその意見に反対して劉備を曹操に対しての牽制として用意するべきと主張しました。

 

魯粛と周瑜

 

間もなく、建安15年(210年)には周瑜が亡くなって呉軍の全権が魯粛が握ったので、荊州問題は魯粛が担当しました。つまり、魯粛の主張が入れられたのです。

 

魯粛、周瑜、劉備

 

こうして、劉備に荊州の領土の一部を貸すことが決定しました。これが有名な「荊州借用問題」です。孫権の言い分では「貸した」というだけです。

 

劉備と孫権

 

ただし、劉備の言い分では「もらった」と思っています。

 

父・関羽とともに亡くなる関平

 

この問題は関羽(かんう)を討つ建安24年(219年)まで続くことになります。

 

 

三国志ライター 晃の独り言

三国志ライター 晃

 

以上が赤壁の戦いの結末から、劉備・曹操・孫権の3人がどうなっていくのか記事にしました。なお、これはずっと後の話ですが、孫権は陸遜(りくそん)と昔の将軍たちについて話をしました。

 

呂蒙

 

具体的には周瑜・魯粛呂蒙(りょもう)です。

 

この時に孫権は「荊州を貸したのは魯粛のミスだったな・・・・・・」と言いました。やっぱり、孫権の気持ちとしては周瑜の意見を採用したかったのでしょう。だから、呂蒙が関羽を討つ時にあっさりとOKにしたのでしょうね。

 

▼こちらもどうぞ

曹休が赤壁の戦いに参加していたら曹操は天下統一できた?

 

 

 

  • この記事を書いた人
  • 最新記事
晃(あきら)

晃(あきら)

横山光輝の『三国志』を読んで中国史にはまり、大学では三国志を研究するはずだったのになぜか宋代(北宋・南宋)というマニアックな時代に手を染めて、好きになってしまった男です。悪人と呼ばれる政治家は大好きです。
         好きな歴史人物:
秦檜(しんかい)、韓侂冑(かんたくちゅう)、 史弥遠(しびえん)、賈似道(かじどう) ※南宋の専権宰相と呼ばれた4人です。
何か一言: なるべく面白い記事を書くように頑張ります。

-外部配信