関羽は蜀(221年~263年)の将軍です。蜀の建国以前に亡くなっているので、実際は後漢(25年~220年)の将軍が正しいと思います。
さて、この関羽ですけど、存命中にどれほどの実績を挙げたのでしょうか。今回は有名な「美髯公」関羽の実績に関して焦点を当ててみましょう。
関羽の実績1:顔良を斬る
建安5年(200)に劉備は曹操と戦って敗れました。敗れた劉備は妻子を置いて袁紹のもとに逃げました。
この時に残留していた関羽は曹操により捕虜にされました。でも何があったのか分かりませんが、曹操は関羽を殺しませんでした。
また、劉備の消息が判明したら出て行ってよいと約束しました。
でも、関羽もタダで出るのは気が引けたのでしょう。実績の1つでも挙げて出ていくことにしました。
建安5年(200)は、曹操と袁紹が天下分け目の決戦(官渡の戦い)を行っている最中でした。
袁紹は白馬に顔良を派遣しました。
関羽は張遼と一緒に出陣しました。顔良は何を考えているのか、自分の陣地に日差し避けのために天蓋を置きました。
これでは「自分が大将です」と言っているのと同じです。結果は案の定でした。
関羽に目を付けられてしまい、突撃されて一撃で殺されました。
余談ですが、顔良が強いのは『三国志演義』の創作であり正史ではそれを発揮するシーンはありません。何と言っても天蓋なんて張ってのんびりしているレベルですから、勇猛果敢な武将タイプよりも、命令を出す指揮官タイプだったのかもしれません。
関羽の実績2:于禁と龐徳を破る
建安24年(219年)に関羽は樊城の曹仁を攻撃しました。
曹操は救援として、于禁と龐徳の2人を派遣しました。この時に関羽と龐徳が互角の勝負をしたのは『三国志演義』の創作です。
挟み撃ちという不利な状況に陥った関羽ですが、運よく河が氾濫したので于禁と龐徳の軍は壊滅しました。
この時の戦いで于禁を生け捕り、ホウ徳を斬る実績を挙げました。ただし、これが関羽の最後の実績です。
関羽は同年に孫権と曹操の同盟軍により討たれました。
性格が原因で実績が少ない?
以上が史料に残されている関羽の実績です。びっくりするかもしれませんが、2つしか存在しないのです。なぜこんなに少ないのでしょうか。
原因の1つは、関羽がずっと荊州にいたからです。劉備が劉璋から益州を奪取した建安19年(214年)以降、関羽は荊州に残留して統治に専念しています。
つまり、関羽は荊州の責任者となっていたのです。責任者が簡単に戦場に出るわけにはいきませんからね。
もう1つの原因は、関羽の性格ではないかと考えられます。
関羽の性格を簡単に表すと次のようになります。
(1)下っ端の兵士には優しい
(2)同列の将軍や文官には傲慢な態度をとる
特に(2)が問題です。
かつて、馬超が加入した時に、その存在が気になったので諸葛亮に手紙で尋ねました。
諸葛亮は関羽のプライドを傷つけない程度に、上手に返信を書きました。喜んだ関羽は、その手紙を来客に見せて自慢していたのです。
また、黄忠が関羽と同列する人事の話をした時は、ガチ切れした話も残っています。
「アホの基本は、見栄っ張りだよな」
・・・・・・『闇金ウシジマくん』のセリフです。ちょっと古くて分からなかったですか。
本当にこのセリフと一緒です。
関羽の性格は見栄っ張りです。下っ端の部下にだけ外面良くて、同僚の間では評判が最悪というタイプです。読者の皆さんの学校や会社にも1人はいると思われます。
おそらく、劉備と諸葛亮は関羽の性格を知っていたので、あまり実績を挙げさせなかったのだと思います。だって挙げれば調子に乗るし、同僚は馬鹿にするはずですから・・・・・・
三国志ライター 晃の独り言
以上、関羽の実績についての記事でした。
関羽ファンにとっては、最悪の記事ですが、そこはお許しください。
※参考
・三国志 きらめく群像 (ちくま文庫)
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