皆さんは三国志の武将の一人である呂布に付いて、どのようなイメージを持っていますか?
豪傑、猛将、そして裏切り……そういったイメージを抱いていることと思います。そこで今回はそんな呂布のイメージを、呂布の最後の戦いとなった下邳の戦いと共に見直していきましょう。
下邳の戦いについて軽く触れてみる
呂布は董卓から離反した後は行く当てを失くし、徐州にいた劉備を頼りました。しかし頼りにした劉備を裏切り、下ヒを奪います。
この裏切りについて、後漢書の呂布伝では袁術から言われて行った、とされています。
さて呂布に本拠地を奪われた劉備は落ち延び、曹操を頼ります。
劉備を保護した曹操は大軍を率いて呂布と対決。
この際に呂布軍にいた陳宮はいくつもの策を呂布に提案しますが、呂布は陳宮の策を聞き入れずに戦い、連敗。その後、下ヒで籠城戦を行うことになります。このため、この戦いを下邳の戦いと言うのです。
呂布のイメージである「裏切り」はどこから来た?
呂布のイメージには「裏切り」が多いと思われます。このイメージはどこから来たのでしょうか?
まず呂布は丁原という人物に仕えていました。
丁原は董卓と反目し合うようになり、董卓は呂布をそそのかして裏切りを行わせます。
その後、呂布は董卓の侍女と密通してしまい、露見を恐れるあまり董卓を裏切りました。
そして行き場を失った自分を受け入れた劉備を最終的に裏切ることになります。この行動の連続が、呂布を裏切りの武将としてイメージを定着させてしまったと思います。
更に三国志演義では丁原は人格者で呂布の義父、ということにされてしまっているので、その丁原を裏切ったことで呂布のイメージが悪化してしまいますね。ですがこれは演義の創作部分であり、実際には丁原は義父ではなく、そして丁原自身の性格も粗野な人物で学問は全くできなかった人物、とされています。
演義では董卓の専横を許さない忠義のある人、と書かれているのでこれによって呂布のイメージが悪くなってしまう一因を作ってしまっているのです。
しかし呂布が三度もの裏切りをしたのは事実、決して呂布が忠義心に溢れた人物であるというつもりはありません。ただ呂布は裏切りを好んだ、という訳ではなく、やや目先の利益だけを判断材料として行動してしまう傾向があるのです。それが丁原、董卓、劉備を裏切った理由として筆者は考え、そしてそれが呂布の性格を形作っていると思うのです。
下ヒの戦いの呂布の最期
さて、呂布の最期に戻りましょう。曹操と真っ向勝負に敗北した呂布は、下ヒの城で籠城戦を行います。
彼らの策によって曹操は下ヒ城を水攻めします。水攻めの強さは皆さんご存知のこと、あの万夫不当の守将である曹仁ですら関羽の水攻めによって樊城を捨てるか否かというところまで追いつめられるほどです。
そんな悲惨な状況に追い込まれた下ヒに、樊城の満寵のような存在はいませんでした。
侯成らが裏切りを起こし、陳宮を捕まえて曹操に投降。
それを知った呂布もまた、張遼たちと共に投降しました。
呂布の「最期」をもう一度振り返ってみる
さて投降して捕縛された呂布は曹操に自分を味方にしないかと売り込みますが、ここで劉備が反対。過去の裏切りを羅列されて迷っていた曹操もそれに同意。
呂布は「一番信用ならないのは劉備だ」と主張するもそのまま縛り首にされてしまいます。
この時に陳宮の方は助命を拒んで縛り首になったことで、まるで呂布が最期まで悪あがきをする人物のように取られてしまうこともありますが、実は後漢書呂布伝ではこのようなシーンがあります。
曹操に包囲をされ、もはやこれまでと悟った呂布。彼は部下を呼んで自分の首を取り、それを手土産に曹操に降伏せよと伝えます。しかし呂布を慕う部下たちは首を取ることができず、最終的に彼らと共に投降しました。
裏切りを重ね、最期にあがいた呂布ですが、その一方で自分の運命を悟り、更に部下に慕われているという一場面もあるのです。このシーンも踏まえて、呂布という人物をもう一度見返すと……不思議とただ裏切りを重ねた不誠実な武将にだけは感じないと思います。
三国志ライター センの独り言
呂布は無双ではあるが考え無し、裏切りを繰り返すなどのイメージを抱かれています。
しかしその一方で最期まで付いてきてくれた配下が首を取ることを拒絶するなど、慕われているシーンもあります。呂布だけでなく三国志の武将たちには色々なイメージがあると思いますが、インパクトの強いシーンだけで判断せず、色々なシーンを踏まえてその武将を見直すとまた、その人物に深みと魅力を感じることができますね。
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