三国志でトップクラスの人気を誇る曹操。多彩な顔を覗かせる英雄ですが皆様はどういう一面が好きでしょうか。私は野心満々で極悪非道な曹操の「ダークヒーロー」っぷりがハチャメチャで好きでした。
今日は史実の曹操のワルっぷりを歴史書の記述を基に紹介したいと思います。
本記事は、寄稿者の個人的な見解が述べられているもので、必ずしも当メディア『はじめての三国志』の公式な立場を代表するものではございません。当メディアは、一貫した編集ポリシーに基づいて運営されております。
攻略した城の破壊、住民虐殺
ご存じのファンも多いと思いますが曹操は父親が徐州で殺されたことを怨み、193年、194年の二度にわたり徐州を襲撃しました。陳寿三国志の武帝紀には「曹操軍が通り過ぎたところ多くの殺戮が行われた。」という記載があります。
太祖擊破之、遂攻拔襄賁。所過多所殘戮(三国志武帝紀)
曹瞞伝にはより詳細な記述がありました。
「曹操の軍によって徐州では男女数十万人が坑殺され、泗水は投げ込まれた死体で堰き止められ流れが止まった。泗水より南の慮・睢陵・夏丘の諸県を攻取し、皆なこれを屠城した。鶏も犬もいなくなり、廃墟になった」とある。
自京師遭董卓之亂、人民流移東出、多依彭城閒。遇太祖至、坑殺男女數萬口於泗水、水爲不流。陶謙帥其衆軍武原、太祖不得進。引軍從泗南攻取慮、睢陵、夏丘諸縣、皆屠之。雞犬亦盡、墟邑無復行人(范曄『後漢書』陶謙伝 『曹瞞伝』)
上記が最も有名な曹操の悪行ですが、他にも徐州虐殺のような「屠城」を沢山行っていました。
以下は歴史書に見れる具体例となります。
・太祖攻圍數月、屠之(三国志呂布伝)
・屠彭城(三国志武帝紀)
※徐州虐殺とは別件。呂布討伐時
・曹操攻屠鄴城(後漢書孔融伝)
※水攻めで城を破壊した他、袁氏の婦女を犯した、と記載あり
・太祖征三郡烏丸、屠柳城(三国志公孫度伝)
・淵與諸將攻興國、屠之(三国志武帝紀)
・夏侯淵自興國討之。冬十月屠枹罕斬建(三国志武帝紀)
・氐王竇茂衆萬餘人恃險不服、五月公攻屠之(三国志武帝紀)
・仁屠宛斬音(三国志武帝紀)
※反乱を起こした民を屠りました。この反乱理由は曹瞞伝では民が曹操の圧政に耐えかねたため、とあります。
三国志管寧伝においても陸渾県の労働の過酷さが反乱に繋がったと記載されております。もちろん、これは曹操軍が圧倒的に多い回数でした。私が他に調べたところ孫呉では孫策・孫権らで2,3回程「屠城」の記述がありました。
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官渡の戦いにおける捕虜生き埋め
・徐州虐殺の次に有名かもしれませんが、官渡の戦いの戦後処理で曹操は袁紹軍の捕虜を生き埋めにしました。
餘衆偽降、盡坑之(『三国志袁紹伝』)
裴松之注等の記載を素直に読む限りですと穴埋め被害者数は袁紹の軍勢は八万ないし、七万だとのことです。曹操は何故生き埋めをしてしまったのでしょうか。兵糧不足ゆえとも思いましたが、輜重を奪った記述があるため、兵糧には不足していなかったのではないかと私は考えます。
紹衆大潰、紹及譚棄軍走、渡河。追之不及、盡收其輜重圖書珍寶、虜其衆(三国志武帝紀)
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朝臣の大量殺害
曹操が許に献帝を迎え権勢をふるうようになった頃の記録に、「宮廷の内外で曹操によって誅殺された者が多くいた」とあります。そして粛清された被害者の代表として議郎の趙彦の名が挙げられております。
議郎趙彥嘗為帝陳言時策,曹操惡而殺之。其餘內外,多見誅戮(後漢書伏皇后紀)
これはあまり知られていないかもしれない逸話かもしれませんね。
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皇后とその一族の殺害
車騎将軍の董承は献帝の密勅を受け、曹操の暗殺計画を企ておりました(『三国志-先主伝』しかし事前に発覚し、計画に関係した者は一族もろとも処刑された。このとき董承の娘は献帝の妃で妊娠していたが、彼女も捕えられ殺害されました。
皇后の伏寿は、もと屯騎校尉であった父親の伏完へ「献帝は董承が殺されたので曹操を怨んでいる」旨の手紙を送っていました。しかし伏完は曹操排除を実行できないまま死に、この手紙が建安19年(214年)に発覚し、彼女は廃され殺され、兄弟ともども伏一族は処刑されてしまいました。
漢皇后伏氏坐、昔與父故屯騎校尉完書、云帝以董承被誅怨恨公、辭甚醜惡。發聞、后廢黜死、兄弟皆伏法(『三国志武帝紀』)
他の歴史書にはより詳細な記載がありました。
曹操は華歆に命じて兵を使って宮中に押し入りました。皇后は二重壁の中に隠れたが、壁は壊されて引きずり出されてしまいます
。ちょうどそのとき郗慮と会っていた献帝は、髪を振り乱し裸足のまま連行されようとしている皇后が「陛下、またお会いできるでしょうか」と涙ながらに助けを求めたのに対し、「私でさえいつまで命があるかわからないのだ」と言って為す術なく眺めることしかできませんでした。皇后はそのまま連れて行かれて殺され、彼女の一族も数百人が殺されました(呉人『曹瞞伝』後漢書伏皇后紀)
また、伏寿と献帝の間には子が二人おりましたが、残念ながらこの子供たちも殺されております。(『三国志先主伝』 後漢書伏皇后紀)。ここら辺りも演義で有名な逸話ですね。
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その他
書いてる内に私は気づきました。このペースで書いてると記事がアンバランスになってしまうことに。。細かい処刑系の逸話や被害者は箇条書きスタイルで割愛させてください。
・袁忠の処刑(『曹瞞伝』)
・桓邵の処刑(『曹瞞伝』)
・辺譲の処刑(諸説あり)
・華佗の処刑(『三国志華佗伝』)
・孔融の殺害(『後漢書』孔融伝)
・崔琰の処刑(三国志崔琰伝)
・婁圭の処刑(三国志崔琰伝)
・許攸の処刑(三国志崔琰伝)
・楊脩の処刑 (諸説あり 『後漢書』 『三国志曹植伝』、『典略』)
・侍中の臺崇、尚書の馮碩の処刑(後漢書献帝紀)
・琅邪王の劉熙の処刑(後漢書献帝紀)
・王模、周逵の処刑(三国志陳羣伝)
・周不疑の殺害(『零陵先賢伝』)
・呂伯奢一家の殺害(諸説あり 王沈『魏書』 『世語』 孫盛『異同雑語)
・寝室近くの愛人を撲殺(『曹瞞伝』)
・兵糧担当官に罪をなすりつけ処刑した逸話(『曹瞞伝』)
・洛陽の北部尉時代、厳しい禁令をつくり破った者を極刑に(『曹瞞伝』)
・消火に加わった者こそ本当の賊であると主張し殺害(山陽載公記)
・赤壁の敗走中に自軍兵士を踏み殺して撤退(山陽公載記)
・毛玠、司馬懿、楊彪 淳于瓊らへの暴力・圧力・投獄
・属官へのパワハラ(三国志何夔伝)
・梁の考王(前漢・景帝の弟)の墓荒らし(陳琳の激文)
・重罪相当の悪事を犯すが本人は無傷(三国志夏侯淵伝)
・秦宜禄の妻を略奪(蜀記)
・張済の妻を奪ったあげく、降伏した張繍を理不尽に殺害しようとする(三国志張繍伝)
寄稿者:三国太郎の独り言
如何でしたでしょうか。「綺麗な曹操」が好きな人にとっては刺激のある記事で「信憑性の低い歴史書を引用している」とかツッコミをいれたい部分もあったかと思います。私は曹操の「ワルさ」は曹操を構成する大きな要素だと思います。ワルさと多才さが同居してるがゆえの妖しさが曹操の魅力だと私は考えております。
参考:
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