今回は九品官人法に付いて、解説、そしてそのデメリットと問題点をお話していきたいと思います。九品官人法は一言で言うならその制定された時代において新しい官吏の登用法なのですが、当然のようにデメリット、そして問題点も指摘されているのです。
ではそのデメリット、問題点は?そしてそれは、どうして改善されることはなかったのか?色々と考えてみたので、一つ一つお話していきましょう。。
この記事の目次
九品官人法とは一体?陳羣が建議した新しい官吏の登用制度
さて九品官人法は、魏の皇帝・曹丕が始めた官吏の登用法で、その曹丕の四友、陳羣が建議してできあがったものです。これは中央から中正官という役職を派遣し、彼らは地方で人材を最高の一品から九品まで評を付けて中央に評価を贈る、そしてそんなに優秀な人物であるならば時に中央に招かれて……という方式で人材発掘が行われていました。
それまでは郷挙里選という、地方の豪族が優秀な人材を推薦する方式でしたが、このため地方の豪族に賄賂を贈っては推薦して貰う、という状態が横行したため、この九品官人法という新しい仕組みが作られたのだと思います。
九品官人法、とんでもないデメリットと問題点
ではこの九品官人法のデメリットと問題点ですが、まず問題点として「結局は中正官に賄賂を贈るようになり、元々の賄賂の横行は変わらなかった」ことが挙げられます。
そしてデメリットですが……まず郷挙里選では豪族に賄賂が集まることで、地方の豪族が権力を持つようになってしまっていました。そういう欠点から中央から中正官を派遣したのでしょうが、この中正官に賄賂が贈られるようになった上に、ある権利を持つ者たちが生まれてしまったのです。
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「上品に寒門なし、下品に勢族なし」
この九品官人法では一品が最高、九品を一番下のランクと格付けしていましたが、殆ど一品が選ばれることはありませんでした。つまりほぼ二品が最高だったのですが、この二品の評価をされた家柄の者たちは「中正官に意見することができる」ようになっていたのです。つまり名家に生まれれば名家は約束されたようなもの。これを批判した言葉が「上品に寒門なし、下品に勢族なし」という言葉です。
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司馬懿はどうして九品官人法にメスを入れなかったのか……?
そしてこの九品官人法、司馬懿が魏の実権を握るようになる頃に少し改変が加えられています。それは中正官の上により権限が強い州大中正を置くこと……これにより更に「権力を持つ一族が権力を持つようになる」というサイクルが形成されていきました。慌ててはいけません、これこそ司馬懿の罠!
司馬懿は敢えて九品官人法の欠点、デメリットをそのままにすることにより、権力を持つ者……司馬一族の権威を高めていった……!
のではなかったとしたら、どうでしょうか?そこが今回ちょっと考えてみた筆者の蛇足点となります。果たしてこの蛇足は龍になれるでしょうか。
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九品官人法の欠点、既に指摘されていた!
九品官人法の欠点を指摘した人物がいます。それは魏の夏侯玄、父は夏侯尚、母は魏の大将軍、曹真の妹、宗室に連なる血の流れを持つ人物。
この夏侯玄に司馬懿が政治に付いて尋ねると、彼は九品官人法の欠点として、中正官の権限が強すぎること、そのために家の力、金の力で中正官に近付くことができる人物が有利となる、という指摘を行いました。
そしてこれらの欠点をなくすためにも、中正官の権威を縮小するべきと言ったのです。九品官人法が生まれた時代に、その欠点やデメリットは既に指摘されていたのでした。
司馬懿の言葉に含まれる意図とは?
そしてその指摘に、司馬懿は
「優れた人物が出現しない限り、貴方の考える政策は実地することはできないだろう」
と答えたと言います。簒奪者、司馬仲達の言葉と考えるならばこれは「司馬一族よりも秀でている者が生まれない限り、集中される権力の行き着く先は変わらないだろう」とも聞こえる言葉です。しかしもしこの言葉を逆の視点、あくまで魏の国に忠義を立てる功臣、司馬懿の姿として考えてみるならば。
「優れた人物が出現した時、貴方の考えは実行されることだろう」とも取れるのではないでしょうか。
司馬懿はどこまで先を見越していたか
この時点で司馬懿の年齢はおそらく、70近く。既に老年にかかり、嘗ての同志たちも消え、次代に全てを託さなければならない年齢。そして夏侯玄の意見を取り入れ、司馬一族の専横が起こることもなく、貴重な人材を取り入れていくサイクルが上手くいけば、魏の時代は、続いて行くかもしれない。
しかし願い虚しく、魏の皇帝は三代目にして出自が不明、頼りの宗室だった曹爽は失脚、司馬一族に対抗する勢力は現れることなく、司馬懿は亡くなりました。
司馬懿がもし、魏の曹一族の弱体化(例・曹爽)を嘆いていたとするならば。もしかしたら嘗ての同志たちが作り上げた九品官人法の欠点を指摘した夏侯玄に、何らかの期待をかけたのかもしれない。
もしその欠点を補った政策を成し遂げることができれば、魏は続いて行くと思ったのかもしれない。あくまで魏の忠臣・司馬懿と九品官人法の欠点。そんな二つを並べてみたのですが、どうでしょうかね?
三国志ライター センのひとりごと
まあ夏侯玄処刑したのは司馬懿の息子の司馬師ですけれども。(余韻台無し)制定した当初はそうデメリットや欠点は見えてきません。そういうものって、後々判明していくこととも思いますので、九品官人法が欠点しかなかったかどうかはその瞬間には判断が付かなかったこともあると思います。
しかし、司馬懿というほどの人物がそれらに気付かず、更には放置したのか?ではそうしたのなら、何の意図があったのか?それを司馬懿という人物の別一面から考えてみた、筆者でした。
……まあ司馬一族もこの後びっくりするほどやらかすので、この司馬懿にも見抜けぬものがあったのか、という可能性も無きにしも非ずですね、どぼん。
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