第二次濡須口の戦いは、西暦216年から217年にかけて断続的に起こりました。この戦いでも曹操が親征している他に、夏侯惇、張遼、司馬朗、藏覇というような魏のオールスターが出演して、呉と激闘を繰り広げています。それでも三国志演義では知名度イマイチなのは、これも劉備や諸葛亮が絡まない戦いだからなんでしょうね。
この記事の目次
曹操合肥の勝利を追い風に異民族を扇動し濡須口を目指す
※山越族の反乱、地図はかなりいい加減です
第二次濡須口の戦いは、その前年の第二次合肥の戦いに曹操が勝利した事に起因します。第二次合肥戦争は、仲が悪い事で有名な、張遼、楽進、李典の3名が力を合わせ、張遼が決死隊800名を率いて孫権の10万の軍勢を追いかけまわした戦いです。今回の戦いも第一次濡須口の戦いを上回る規模で、夏侯惇や藏覇、張遼などが参加し曹操も度々、濡須にやってきています。
ここでの曹操は前回の失敗を教訓にしてやや慎重になっていて、呉の内部の異民族である山越族の懐柔から始めています。鄱陽の民の尤突や丹陽の賊将の費桟が曹操から印綬を与えられて身柄を保障され住民を扇動して丹陽で乱に参加させました。これには山越族数万が呼応し、陵陽、始安、涇でも同調者が出現してかなり大きな反乱に発展します。
孫権、陸遜と賀斉を使い、反乱を鎮圧
そこで、孫権は陸遜と賀斉を招聘して二人に討伐させました。陸遜は費桟を担当しましたが、費桟の部隊はまとまりがなく、そこまで数が多くありませんでした。なので陸遜は一計を案じて、派手な旗幟を沢山持ってきて部下に分け与え一緒に角笛と軍鼓を与えて山の中に潜ませました。かくして夜になると、旗幟を振り、角笛を吹いて軍鼓を叩かせたので、大軍が来たと勘違いした費桟の部隊は逃げ散り即座に反乱は鎮圧されます。
陸遜は各地で山越族を呉軍に編入して数万を得、蕪湖に帰還しました。賀斉の方も、ほぼ同じで陸遜と共に陵陽、始安、涇を鎮圧しています。ここでは、数千人を斬首し精兵八千を得たとあります。こうして、曹操の最初の一手は失敗してしまいました。
西暦217年曹操が居巣に拠点を築くも・・
西暦217年の正月、曹操は再び出撃し、巣湖の近くの居巣に布陣して、そこに築城を開始しました。一方で孫権は濡須を保持して、孫皎と周泰は度々出撃して曹操軍の攻撃を退けます。しかし、ここで疫病からの風邪が蔓延して、多数の兵士が苦しみました。普通は風邪が、こんなに一斉に流行しないのでインフルエンザかも知れません。この時、少ない薬を兵士に優先して配っていた司馬懿の兄、司馬朗も罹患して回復する事なく死去しています。
二月、曹操は濡須口を落とす為に進軍し、長江の西の郝谿に駐軍します。濡須塢は濡須口の一部で、朱然は大塢、及び三関屯で待ち構え、孫権は濡須塢を守ろうと、さらにその前に築城を開始しました。
濡須塢だけでも大変なのに、これ以上城を築かれてはたまらないので、曹操は張遼と藏覇を派遣、孫権の築城部隊を攻撃したので孫権は敗走負けじと孫権は、呂蒙と蒋欽に全軍の指揮を任せて濡須塢で守らせます。呂蒙は、前回の濡須口の戦いで築城した偃月塢に籠城し強力な弩を一万張り用意して、雨霰と矢の雨を降らせました。
この強弩に阻まれて、張遼や藏覇は布陣を敷く事に失敗し、退却せざるを得なくなります。また、この時、藏覇配下の孫観は矢が左足に命中し傷がもとで死んでいます。
春まで粘った孫権が曹操を撃退
戦線が膠着状態になり、3月を迎えると連日の豪雨が発生し長江の水位が上昇呉の水軍が、自在に動けるようになります。これにより魏の将兵は不安になり、もう退却したいと張遼に願い出ます。張遼も、潮時を感じますが、藏覇が止めました。
「まて、殿が我々を見捨てるわけはない、退却命令を受けてから退こう」
張遼は思い止まり、一日待機すると果たして、翌日には曹操から退却命令が出ます。こうして、五か月をかけて曹操はめぼしい戦果もなく退却しました。曹操は居巣に夏侯惇を配置し二十六軍を任せ曹仁と張遼を残し孫権に備えました。
孫権は極めて慎重になり、濡須口には周泰を督としその配下として徐盛と朱然を置いて守らせます。この時に、古参の徐盛と朱然が周泰に従う事を不服として文句を言うと、孫権が周泰の服を脱がせて、その体の古傷を一々説明し周泰がいかに忠臣であるかを力説して納得させたのは有名です。
三国志ライターkawausoの独り言
この後、孫権は荊州南郡を領有する関羽と揉め、逆に曹操に接近して、形式上、臣従する事にして秘密同盟を締結します。それにより、挟撃された関羽が討ち取られてしまうのは周知の事実です。
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