三国志の時代でも遺言は非常に重要でした。例えば魏の曹丕が無くなる間際、陳羣や司馬懿、曹真、曹休らに曹叡の事をよろしく頼むと遺言を残して亡くなっています。この遺言は曹丕の跡を継いだ曹叡の時代に尊重され、上記四人は魏の重鎮となって曹叡の時代を支えることになります。ほかにも劉備は孔明へ劉禅の事をよろしく頼むとお願いしています。
このように三国時代の遺言は非常に重要な内容で、遺言を託された人物の人生を大きく変えるほどでした。そんな遺言を司馬懿も残していますが、どのような遺言を残しているのでしょうか。
司馬懿の遺言はどんな内容その1:曹丕の近くに埋葬してくれ
司馬懿の遺言はどのような内容だったのでしょうか。司馬懿は亡くなる間際、息子達を呼んで自分の埋葬する場所を指定する遺言を残しています。司馬懿は息子達へ「俺が亡くなったら首陽山へ埋葬しろ。俺の後に死んだ者と合葬しないように」と遺言。どうして司馬懿はこのような遺言を残したのでしょうか。
魏の皇帝の近くに埋葬するように命令されていた
司馬懿はどうして息子達へこのような遺言を残したのでしょうか。それは司馬懿は曹丕の時代に関係があります。司馬懿は曹丕から「司馬懿よ。亡くなったら俺の近くに墓を建ててそこに眠るがよい」との詔をもらっていたと思われます。そのため司馬懿は息子達へ自分の埋葬場所を指定したのではないのでしょうか。
また司馬懿が埋葬場所を指定した証左として、曹丕が首陽陵と呼ばれている墓を建築しこの場所に埋葬されています。司馬懿が遺言で残した首陽山と呼ばれる場所が曹丕の埋葬されている首陽陵の近くであると考えれば、司馬懿が上記のような遺言を残した理由に現実味を増すことができるのではないのでしょうか。
司馬懿の遺言その2:息子達への注意
司馬懿は自分の埋葬の遺言のほかにもう一つ遺言を息子他達へ向けて残しています。その遺言はこのような内容でした。司馬懿は息子達へ葬儀方法を遺言で残した後「俺は大きな権力を握っていたこともあり、他人からあいつは謀反を必ず起こすぞと警戒されてきた。だからお前たちは俺のように他人から警戒されないように慎重に周りに配慮するよう気を付けろ」と残していました。この遺言は司馬懿の経験則から生まれた遺言であると言えるでしょう。
曹操は司馬懿を非常に強く警戒していたようで、自分が生きている間に彼を重要な役職へ就けることをしませんでした。また曹芳の時代には司馬懿へ権力が集中している事を危ぶみ、王陵のように司馬懿を討伐しようと考えて反乱を計画した人物もいました。このようなこともあり司馬懿は息子達へ上記のような遺言を残したと考えることができるのではないのでしょうか。
三国志ライター黒田レンの独り言
司馬懿の息子達は司馬懿の遺言を守ったのでしょうか。司馬懿が残した葬式方法については息子達はしっかりと守って遺言通り行いました。しかし司馬懿が残した注意すべき事柄に関しての遺言は守ることができませんでした。
司馬師は曹芳を皇帝の位から引きずり降ろして新しい皇帝を擁立してしまいます。この結果司馬師に対しての反発が強まり、司馬家に対して反乱が相次いで勃発する原因を作り上げてしまいます。また司馬師の弟・司馬昭も父の遺言を守れず、皇帝を殺害してしまい(司馬昭が直接手を下したわけではないが、彼の家臣が反射的に皇帝を殺害。)、司馬家の歴史において汚点を残してしまいます。
このように司馬懿の息子達は遺言を守ることができませんでしたが、歴史に名を遺す活躍もいっぱいしているので遺言を守れなかったのはしょうがないのかなとも思います。しかし司馬懿がせっかく遺言を残したのに息子達が守ってくれないなんてあの世で司馬懿もなげているのではないのでしょうか。
参考 晋書など
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