諸葛孔明、もしくは、諸葛亮。三国志の世界に飛び込んだ方ならば、ほぼ例外なくその名前を聞いたことがあるでしょう。またその活躍を見て、もっと知りたいと思ったり……逆に、その活躍が余りにも「凄すぎる」ことに違和感を覚えた、という人も少なくはないのではないでしょうか。
今回は諸葛亮、有名なその知略の活躍に関して、史実と創作という二視点から、二つの相違点を見ていきつつ、諸葛亮についての知識をより深めていきたいと思います。
この記事の目次
そもそも、三国志とは史実ですか?
さて三国志の沼に入り込んだ方は、もしくはある程度その深みにはまり込んでしまった方ほど、この「三国志とは史実であるかどうか」について気になっている方が多くいます。一般的に三国志とは大きく分けて二つ、歴史書である「三国志」と創作である「三国志」があります。
この内、歴史書である三国志のことを「正史三国志」、そしてその三国志を基に民間伝承らを取り込みつつ、読み物として創作された三国志を「三国志演義」と言います。三国志演義はあくまで創作ですが、その基となった三国志は、歴史上の記録をまとめたものであり、実在した人物たちによる一時代の史実、実際に起こったとされる事実となります。
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諸葛亮と孔明の違いとは何か?別人であるのか?
ここでもう一つ、ご説明を。諸葛亮と孔明、もしくは諸葛孔明、と同じような文字が並ぶと混乱してしまうかと思いますが、これは同じ人物のことです。基本的には性である「諸葛」名である「亮」で諸葛亮と表記する場合が多く、本名で呼ぶことを避ける習慣のために自分で名乗る字である「孔明」は歴史書や記録ではあまり利用されません。
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こちらが普及したのは、創作である三国志演義で諸葛亮は「孔明」と呼ばれることが多く、このため諸葛亮と孔明、更に諸葛孔明呼びと名前の呼び方が多角的になってしまいました。基本的にはどれで呼んでも間違いではありません。
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諸葛亮は誰に仕えていたか?
諸葛亮は三国志の中心人物の一人でもある、劉備に仕える生涯を送りました。この劉備は創作、三国志演義の前半部分の主役ともいえる人物です。
三国志演義で劉備は諸葛亮を配下に迎えるために、三度にも渡って諸葛亮の元を訪れ、果てに諸葛亮が寝ていても静かに立って待ち続ける……という「三顧の礼」が有名なシーンですね。この話は、史実にも存在します。
建安5年に劉備は劉表を頼って荊州北部の新野に居城を貰っていました。この時に諸葛亮の友人が劉備に諸葛亮のことを話し、劉備は三度も諸葛亮の元を訪れて諸葛亮を配下に迎えることに成功したのです。
当時、権力者に能力者が自らを売り込んでいくのが基本であり、よほど有名な活躍をしたことのあるような人物でもなければ年齢も立場も上の劉備が、まだ若く無名の諸葛亮を訪れるということは有り得ませんでした。諸葛亮は後々までこの件を感謝していたようで、三国志、諸葛亮伝でもこの一件は出てきます。
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諸葛亮とは何をした人なのですか?
諸葛亮は前述の劉備に仕え、自分の土地を持たなかった彼をその知略と政治手腕で支え、三国の一国の皇帝にまでおし上げました。またその死後も劉備の国である「蜀」の天下統一のためにその生涯を捧げ続けます。これは史実、創作でも変わりありません。
ただ、有名な赤壁の戦いのように、創作の方では諸葛亮は知略というよりも奇術、時に天変地異を自ら起こすような一面が多く見られますが、史実ではそのような人間離れしたような一面は有りません。寧ろ常に法に照らし合わせて正しい行いをし、公明正大、知略に飛んではいますが奇策ではなく、どこまでも真っすぐである人物であると言えるでしょう。
この辺りは三国志演義の諸葛亮がやたらと頭脳の凄さを見せつけ、他人を憤死させることが多くあるため、比較すると少しばかりイメージが違うかもしれませんね。
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諸葛亮の妻の存在は?諸葛亮の妻っていったい誰?
ここで諸葛亮の妻、黄夫人のお話も少ししましょうか。創作である三国志演義ではこの黄夫人、大変な才女であり、その頭脳から様々な策を夫である諸葛亮に授けたとも言われます。また逸話によると諸葛亮が発明したとされる木牛流馬という輸送機も黄夫人が発明したとも……?
しかし、実際に黄夫人が黄承彦という名士の娘であり、諸葛亮の妻となったのは史実でも触れられているのですが、大変な才女であったかどうかの記録は殆どありません。
一つあるのが正史三国志における諸葛亮伝の裴松之注に引く『襄陽記』に見る話で、父親である黄承彦が「私の娘は容姿は良くはないが、才能は君に娶らせても引けを取らない」と言ったという記述があります。恐らくこの記録から、三国志演義の諸葛亮の妻の才女っぷりが強調されているのではないでしょうか。
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諸葛亮はどうしてこんなにも有名になったのか?
さて、重要なことですが「諸葛亮という存在が、どうして中国のみならず日本でも有名になったのか」についてお話ししましょう。まず正史三国志、史実における諸葛亮は前述したように忠臣です。劉備亡き後も、その国を支え続けます。そしてこれは創作の三国志演義でも同じです。創作であるが故の演出もあることから、より一層その忠義心に心を打たれることでしょう。
この忠義心というのは、実は争いが絶えない時代において非常に重要視される傾向にあります。特にそれは、権力者が最も尊ぶところでもあります……何故なら、裏切られる側と言えますからね。広い中国でも、そして狭いながらも幾つもの「国」と呼ばれる存在が群雄割拠する時代が続いたからこそ、人々はこの諸葛亮の忠義心に心打たれ、その生き様が深く広まることになったのではないでしょうか。
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諸葛亮の欠点とは?
最後に、諸葛亮の欠点と言えるべきものをご紹介します。正史の陳寿の評に「臨機応変な軍略は得意ではなかった」とあります。
面白いことに創作の三国志演義では、臨機応変処か千変万化、神がかりな軍略をいくつも繰り出す諸葛亮が、史実ではこのような評価をされているというのは興味深いですね。寧ろこの変化は、その評から生まれた可能性もあるかもしれません……やり過ぎて、創作感が強すぎる所が出てしまっていますが。
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そんな諸葛亮の名言とは?
最後に、諸葛亮の名言から一つ、現代にまで伝わっている一文をご紹介しましょう。
「無欲であることで志が明確になり、冷静でなければ道は遠い」
道が遠い、というのは、大きな志が成し遂げられることはない、目標が遠くなる、ということを意味しています。これは諸葛亮の子孫が集まったとされる諸葛八卦村(浙江省金華市蘭谿市諸葛鎮)にある、誡子書という文章の一部を抜粋したものです。
志を成し遂げるにはまずはその目標をはっきりすること、そのためには無欲であること。その上で、どれだけ冷静でいられるか……それが大事という意味ですね。この文を覚えた上で、もう一度、史実、そして創作の諸葛亮の晩年を見直して欲しいと思います。果たしてその最期、彼は冷静であったのか。忠義心が強すぎたゆえのある種の狂気を、筆者はその姿に感じてしまうのです。
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三国志ライター センのひとりごと
諸葛亮の正史三国志、史実と、三国志演義の創作を、ポイントポイントで少しずつ比較してみて行ってみましたが、如何でしたでしょうか。史実と創作とは言え、ほぼ変わらないこともあれば、まるで印象が違うことも多くあります。
ではその違いはどうして生まれたのか、それもまた、どこからか自然に発生したものではなく、黄夫人のように元ネタと言えるような部分も見つけることができます。
それを見つけるのも三国志の楽しみですので、どうぞこの沼、より深く使ってみて下さいね。どぼん。
参考:蜀書諸葛亮伝 出師表 誡子書
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