北方の雄、公孫瓚、幽州、青州、冀州、兗州に勢力を伸ばした群雄ですが、その公孫瓚について、kawausoは少し気になる事があります。何が気になるかというと、幽州の後ろの方の小勢力の遼東公孫氏です。同じ公孫を名乗っている両者は血縁関係があるのか?
さらに関係があるとすれば、どの程度の繋がりなのでしょうか?今回は、朝鮮半島と北方四州をそれぞれ支配した公孫瓚と公孫度を考えます。
この記事の目次
同じ公孫氏でも両者は無関係
まず、公孫瓚と公孫度は同族であるかどうかを考えます。公孫瓚の出身地は、遼西の令支で、公孫度の出身地は遼東襄平です。両方とも幽州に含まれているので、一見、同族かと思いますが、実際には無関係の可能性が高いようです。
それは、公孫瓚が二千石の官僚の家に生まれたのに対し、公孫度の父、公孫延は吏を避けて玄菟郡に移住した比較的に身分の低い家の生まれであるからです。また、公孫氏という氏についても諸侯の孫の呼称が氏になったもので諸侯の孫の家柄であれば、こう呼ばれるという位のものです。
例えば商君の変法で有名な公孫軮は、衛の公族出身の為に本来、衛軮であるのを公孫軮と呼ばれましたし、春秋時代の鄭の宰相、子産は氏は国で諱が僑なので国僑ですが、祖父が鄭の穆公なので公孫僑と呼ばれたりしました。このように両者は同じく公孫氏ですが、血縁は無さそうなのです。
国境を接しながら公孫瓚と公孫度が争わない理由は?
さて、同族ではないとすると公孫瓚と公孫度は赤の他人という事になります。国境を接して幽州を折半している形の両者は、どうして争わないのでしょうか?
実は、そこには中原と非中原の原則が影響しています。
公孫瓚と公孫度の勢力は、幽州遼東郡を境に折半しているのですが、この遼東郡から東は異民族が割拠する土地であり、漢の勢力下にはあるけれど直接統治が及ばない土地になっていました。
ちなみに〇で囲んだ涿郡は劉備の出身地です。かなりのド田舎で、呂布に同じ田舎者同士と言われて図星のあまりブンむくれたのも分かります。
三国志時代の中原の東の果てこそが、公孫度が支配した遼東郡であり、生産力も低く、鮮卑や烏桓のような遊牧騎馬民族、高句麗や夫余のような朝鮮系の異民族が度々攻め込んでくる土地、獲得した所で防衛コストの方が高くなる場所だったのです。
しかも、漢から送られた征討軍は、時々破られたりしていたので咬まれたらたまらないと考えた公孫瓚は、攻め込んだりしませんでした。一方の公孫度も、人数が多い漢民族を敵に回す愚を回避して両者は暗黙の不可侵状態だったのです。
中原のどさくさを利用して中華に進出する公孫度
一方で、公孫度は公孫瓚こそ相手にしないものの、中原への野望がないわけではなく黄海を船で往来して、対岸の青州東萊郡などを攻めていき、一時的にですがそこを占拠して営州を設置、営州刺史を置いて統治しています。
この頃の青州の刺史は戦下手で知られた孔融で、この頃も偏屈ぶりを発揮し将兵は数百に過ぎない弱小勢力なのに、口舌の徒の王子法・劉孔慈などを重用、食料も不足しているのに曹操や袁紹、公孫瓚と手を組む事なく独立していたようですから、とても公孫度を追い払う力はないでしょう。
その後、孔融は袁譚に追われ、袁譚も曹操軍に駆逐されました。この間のどさくさで営州も消滅したのでしょう。ただ、公孫度の政治は暴政ではなかったようで、遼東の統治は安定していて邴原や王烈、管寧という錚々たる面々が避難した時期もあります。その点は公孫瓚以上だと言えますね。
公孫瓚、袁紹滅亡後、曹操の軍門に降る遼東公孫氏
その後、北方の雄の公孫瓚は、新興勢力の袁紹に敗れて滅亡し、遼東公孫氏のお隣さんは袁氏になりました。袁紹は、北方遊牧民とは融和的に接して、特に烏桓族に大きな信望を得ているので遼東公孫氏に対しても、公孫瓚時代同様の、つかず離れずの距離感を保ちます。
この袁紹を滅ぼして、曹操が北方の支配者になると曹操は積極策を取り、上表して、公孫度を武威将軍、永寧郷侯に封じます。公孫度は「俺は遼東の王だ!永寧侯とは何事か!」と立腹しますが、任命を拒否すれば滅ぼされる口実を与える事になるので、表面上は受け取った顔をして、印綬を武庫にしまい込みました。
公孫度は、公孫康に地位を譲り西暦204年に没します。この後の遼東公孫氏は、曹操の遠征軍に敗れて遼東に逃れた袁尚と袁煕の首を切って、曹操に送るなど魏への恭順姿勢を取りますが、公孫淵の時代に、孫呉と曹魏で綱渡り外交をし、曹叡の怒りを買って西暦239年に司馬懿に滅ぼされて一族皆殺しにされました。
三国志ライターkawausoの独り言
遼東公孫氏は、公孫瓚とは無関係でしたが、中原の辺境という地理的な条件を活かして、中原の群雄の勢力争いの隙間を縫って青州を一部領有するなど抜け目のない立ち回りを見せ、後は派手な動きを見せずに実質支配に徹した強かな勢力でした。公孫淵は悪く言われますが、あの状況ならいずれ西晋に併合されて、その時点で遼東公孫氏は終わっていたでしょう。
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