三国時代といえば、魏・蜀・呉の三国からそれぞれ皇帝が現れ、2つどころか3つも日が昇ってしまった灼熱の時代ですよね。しかし、そんな3人の皇帝たちに先駆けて1つの日が昇っていたことを皆さんはご存知でしょうか。
この記事の目次
袁術、天狗になりはじめる
そう、皇帝として一足早く名乗りを上げたのは、袁術その人です。
彼は何進首謀の宦官皆殺し計画に曹操や袁紹らと参加。返り討ちにあって何進が命を落としたのをいいことに、袁紹と共に宦官数千人を殺戮してまわるというけっこうパンクな人物でした。こうして王朝を堕落させた諸悪の根源が根絶やしにされ、漢王朝に平和が訪れるかと思えばそうは問屋が卸しません。今度は董卓が陳留王を皇帝(献帝)に立てて都で大暴れ。その勢いにビビった袁術はひとまず都を脱出し、南陽に逃げて反董卓連合軍に加わることにします。
ここで彼は、運命の人と出会います。呉の孫策・孫権の父である孫堅です。袁術は孫堅の威を笠に着てうまいこと南陽郡をゲット。孫堅をも自分の配下にすることに成功します。そしてやっぱり孫堅をうまいこと使って董卓を洛陽から追い出すことに成功します。袁術はもう天狗状態。この頃には民草からあらゆる物資を巻き上げ、豪勢な暮らしをするようになっていました。
新しい皇帝の擁立を拒否!だって…
実は、董卓が勝手に献帝を擁立した後、袁紹は袁術にあることを相談していました。「董卓が選んだどこの馬の骨とも知れない奴は皇帝じゃない。俺たちで仁徳が高い幽州の劉虞を皇帝として祭り上げようぜ。」この提案を袁術はそれらしい理由をつけて拒否します。しかしどうやらこのときには既に袁術の腹に一物あったようなのです…。
野望をチラつかせるも、臣下に諫められる
その後、袁術と袁紹との間に領地をめぐって争いが勃発。長安に逃げた董卓そっちのけで大戦乱が巻き起こり、反董卓軍は空中分解してしまいます。この争いの中で袁術にとって大切な虎であった孫堅がまさかの犬死。しかし、誰もが袁術SUGEEE!状態だったために袁紹や曹操などを除いては誰もが袁術を恐れていました。
そんな折、長安で董卓の元部下である李傕と郭汜による争いが起こり、どうやら献帝もその戦乱に巻き込まれて行方知れずになっているという噂が袁術の元に届きます。それを聞いた袁術は、臣下たちの前でその野望をチラつかせます。「漢王朝もすっかり衰退してるし、混乱も収まらないし、どうせなら俺、家柄もいいし人望もあついしさ、天命にこたえようかと思うんだけど、どう?」¥押し黙る臣下たち。ようやく口を開いた者があったかと思えば、「漢王朝に落ち度はないからちょっと…」という諫言。袁術はあまりの正論にぷぅーっと膨れることしかできませんでした。
あれ?これ、俺のことじゃね?
しかし、それでも皇帝になりたかった袁術は自分が皇帝になるにふさわしい存在であることを客観的に示す証拠を探し始めます。彼は、「袁」という姓のルーツは春秋時代の陳にあり、この陳国は舜の子孫である媯満の国であるから、つまり自分は舜の末裔なのだと考えます。
そして、舜は五行説でいえば「土」の徳を持つと言われていることから、自分も「土」の徳を備えており、そのために「火」の徳を持つ漢王朝から天命を受け継ぐ資格があるとこじつけ。
更に、経書である『春秋』と対応する予言書である緯書の『春秋玉版讖』に「漢に代わるものは塗に当たり高くそびえるもの」と書いてあることを発見します。袁術はこの「塗」が自分のことだと小躍りして喜びました。袁術の名前である「術」も「公路」も「みち」であるということで、ピーン!ときたのですね。
総スカンされた挙句、逆賊認定
こんなにたくさん自分が皇帝になるべき根拠があると気づいたというかこじつけた袁術は、居ても立ってもいられずに皇帝になることを宣言し、「仲」王朝を興しました。ところが、そんな宣言が受け入れられるはずもなく、ほとんどの諸侯たちから総スカンを食らいます。
さらに、献帝を擁する曹操から逆賊の烙印を押され、袁術は皇帝どころかお尋ね者となってしまったのでした。
なんと中二設定は魏に受け継がれた…!
なかなかアイタタタ…な感じの袁術でしたが、魏だってこれを馬鹿にはできませんでした。なんと、『春秋玉版讖』の例の下りは魏のことを表すのだと主張!どうやら魏もその正統性を見出すために血眼で予言書を読み漁っていたらしく、その他にも『孝経中黄讖』やら『易運期讖』やらこれでもかというくらい様々な文献からそれっぽい記述を引っ張ってその正統性を主張していたようです。
三国志ライターchopsticksの独り言
どの王朝も自らの正統性を主張するためにけっこう必死だったのかもしれません…。ものすごく皇帝になりたいのは袁術ばかりではなかったようです。
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