三国志演義の中で、若い頃は会稽太守として孫策と戦って敗れ、老いては魏の司徒として蜀との会戦に参じて諸葛亮との舌戦に敗れ憤死するという、噛ませ犬役を担わされている王朗。正史三国志を見るかぎりでは、とても立派な人だったようです。
※三国志演義は、歴史書の正史三国志やその注釈を元ネタにして作られた歴史物語小説です。吉川英治さんの三国志(小説)や横山光輝さんの三国志(漫画)のストーリー展開はおおむね三国志演義に基づいています。
魏の文帝も絶賛した一流の人物
正史三国志とその注釈の記述から王朗像を探ってみましょう。荀彧伝の注釈に引かれている『荀彧別伝』には、荀彧が推挙した当時の高名な人物として「郗慮、華歆、王朗、荀悦、杜襲、辛毗、趙儼」が挙げられています。あんなすごい人を推挙したなんてさすが荀彧、お目が高い!とみんなが納得するようなすごい人のラインナップに王朗が入っているんですね。
魏の文帝(曹丕)の時代に鍾繇・華歆・王朗が三公(最高ランクの3つの官職)についていましたが、文帝は「この三公は一代の偉人である。後世これを継ぐのは難しいであろう(これほどの三公はなかなか得られない)」と評しています(鍾繇伝)。三国の中でいちばんおっきい国のいちばん偉い三つの役職のうちの一つを占め、しかも、これほどの三公はなかなか得られないと絶賛された王朗。まぎれもなく一流の人物であったはずです。
高い学識
張紘伝の注釈に引かれている『呉書』に、魏の陳琳から呉の張紘への手紙がありますが、そこで陳琳は「こちらには景興(王朗のあざな)、そちらにはあなた(張紘)と子布(張昭のあざな)がいます」と書いています。建安七子の一人で名文家として有名な陳琳が、自分のことをへりくだりながら、魏の代表的な文人として王朗を挙げ、呉の君主・孫権も頭の上がらなかった高名な文人の張昭らに匹敵する人物として扱っています。
王朗は『易経』『春秋』『孝経』『周官』の伝(注釈書)を著しており(王朗伝)、後に魏の官吏登用の受験科目に王朗の易伝が採用されています(斉王紀)。
名文家の陳琳が王朗を自分より上で張昭に匹敵する人物としたこと、王朗の著作が官吏登用試験に採用されるほどであったことから、王朗の学識の高さがうかがえます。
民を思う慷慨の士
王朗伝の注釈に引かれている『魏書』に、王朗の人柄が記されています。
王朗は高い才能と広い学識をもっていたが、性格は厳格できちんとしており、慷慨家であった。(中略)つねに、恵み深いという評判がありながら貧窮者をあわれまない世間の連中を非難していた。したがって財物をほどこす場合、さし迫った者を救うことを優先した。
※引用元:ちくま文庫『正史三国志2』井波律子・今鷹真訳 (中略)はよかミカン
「徳」が出世に直結する古代中国では、見せかけだけで恵み深そうな態度をとる人が多かったのでしょう。で、王朗さんはそんな連中に憤る慷慨家だったのですね。「財物をほどこす場合、さし迫った者を救うことを優先した」というのは真心がない人にはなかなかできないことですよね。
私利私欲の人だったら、食いつなぐだけでいっぱいいっぱいな人を助けても自分の役に立ってくれる余力がなさそうだから後回しにして、少し困っているけどわずかな手助けでもりもり力を取り戻しそうな人を先に助けて、恩を売って自分のために働かせようとするに違いありません。王朗はそういうさもしい勘定では動かず、本当に困っている人を助けたのですね。
民の暮らしを考えながら国家の計をたてる
王朗伝にある上奏文を見ると、王朗が民の暮らしぶりを想像しながら国策を考えることのできる政治家であったことがわかります。下に引用するのは、兵乱がやまない現況に対して、王朗が二十年の計を述べた上奏文の一部です。
裁判が事件の真実をつかめば、無実に死ぬ囚人はなく、壮年の男子が土地の生産力を充分に発揮させ得るならば、飢饉に陥る民はなく、貧窮者や老人が米倉から食物を支給されるならば、飢饉による死人はなく、結婚が時機どおり行われるならば、男も女もつれあいをもたぬうらみはなく、胎児の養育が必ずまっとうされれば、みごもった者に身体をそこなうかなしみはなく、新生児を持つ者には必ず労役免除の措置をとれば、みどりごは育たない心配はなく、
成年に達してのち労役を課すれば、未成年者に家庭を離れるかなしみはなく、半白の人を戦にかりたてなければ、老人に行き倒れの災難はございません。医療と薬によってその病気を癒し、寛大な労役によってその仕事をたのしませ、権威と刑罰によって強者を抑え、恩情と仁愛によって弱者をすくい、福祉政策によって貧窮をたすけます。
十年ののちには、成年に達した若人が必ずや街にあふれましょう。二十年ののちには、必勝の兵士が必ずや野に満ちましょう。
※引用元:ちくま文庫『正史三国志2』井波律子・今鷹真訳
一つ一つの家庭がどんな暮らしをしているのか。暮らしを安定させて大勢の若者たちが働けるようになるまで何年かかるのか。こういう考え方ができる政治家は、案外少ないのではないでしょうか。
三国志ライター よかミカンの独り言
正史三国志とその注釈を見たところ、王朗は高い学識を持つ一流の人物であり、真心を持つ本物の政治家であるという印象を受けました。正史やその注釈に書かれていることを鵜呑みにすることはできませんが、少なくとも同時代人に高く評価された人物であったことは間違いありません。
会稽太守として孫策に敗れたことは正史にもありますが、諸葛亮とは舌戦もしていなければ憤死もしていません。三国志演義でひどい脚色をされちゃったなー、って感じです。皆様が三国志演義を読んで「あははは。噛ませ犬」と笑った後には、ぜひ「でもこれ脚色なんだよね」ってちょっとだけ思ってあげて下さいね!
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