さて、三国志を読んだことがあって、曹操を知らないと言う人は稀でしょう。しかしその子、孫の代になっていくとそこまでは……?という人も少なくはないのでは?
今回は曹操の子、曹丕……の更に子、曹叡についてお話をしたいと思います。
さてこの曹叡、魏の二代皇帝となりますが、早世することとなります。この曹叡の早世こそが魏の国が揺るがされることの発端となったとも言われますが……その死因とは?今回は様々な曹叡の死因と考えられるものと共に、彼について見ていきたいと思います。
この記事の目次
曹叡とは?曹操の孫にして魏の二代目皇帝!
曹叡とは、曹操の孫、そして曹丕の子にして魏の二代目皇帝です。
因みに曹操は皇帝にはなっていないので、歴代皇帝は曹丕、曹叡、曹芳、曹髦、曹奐となります。これ以降は晋の代になっていくのですが……実は三代目の皇帝、曹芳から既に「出自があやふやではっきりしない」というとんでもない状態になっています。この点は後にも触れていきますね。
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日本とも実は繋がりがある曹叡、その姿
そんな曹叡、実は日本と深くも浅くも繋がりがある人物でもあります。
実は卑弥呼が使いを送り、親魏倭王という封号を授けた皇帝こそが魏の皇帝、曹叡なのです!……まあ、この時期は曹叡が生きているギリギリのタイミングなので、実はこの皇帝は曹芳なのでは?とも言われていますが……この点は卑弥呼についての記録も少なく、はっきりとしません。
因みに曹叡、魏略によると「天姿秀出」という、劉邦の配下の張良と同じく「容姿がとんでもなく良い!」という評価を正史に書かれている人物でもあります。
張良が「美しい女性のように優しげな容貌」とされ、曹叡は「髪をほどくと床に付くほど長かった」とされることもあり、これはもうとんでもない美形であると想像してしまいますが……まあ容貌に付いてはこの辺りで。
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曹叡の功績とは?曹叡は有能であったのか?
そんな曹叡ですが、皇帝となる前までは不遇な扱いを受けていて、司馬懿など一部の人物しか知られていない人物でもありました。
しかし曹丕の重体状態からすぐさま皇太子と立てられ、間を置かず曹丕が崩御したことによりそのまま皇帝となります。
その後は司馬懿、曹真、曹休、陳羣など……三国志を知っているならばそうそうたる面子を上手く軍事、政治に重用することにより、諸葛亮の北伐を良く防ぎました。特に司馬懿の台頭はどちらかというと曹丕よりも曹叡の時代の方が顕著であると言って良いでしょう。
238年に公孫淵の鎮圧も司馬懿に当たらせ、この一件から後に倭国との交流が再開されることになります。
一説によれば父親の曹丕のように気に入らない人物だからといって、それを処刑することはしない仁君……とも言われますが、何気に夏侯玄や諸葛誕のことは普通に嫌って冷遇しているので……この辺りの評価は難しい所です。しかし急に後継者となったにも拘らず、父親の代からの有能な家臣たちを上手く活かしている所を見ると、十分に優秀な人物であったことは間違いないでしょう。
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【北伐の真実に迫る】
ただし、曹叡の晩年は……
が、諸葛亮の没後から曹叡は荒れ始めます。
数度に渡っての宮殿の建造による財政圧迫、更に問題なのが幾度となく繰り返された戦争での兵士の減少への対策として、兵士の家以外に嫁いだ女性を召し上げ、未婚の兵士と結婚させるなどしました。この問題点は「召し上げた女性が美人だったら後宮に入れる」「もし嫁さんを差し出したくないなら代わりに奴隷でもいいよ(フランク調)」という政策のせいで人身売買まで横行するというひどい有様を成してしまいます。
更には最初の皇后を冷遇した挙句、恨み言を言った皇后を賜死を命じるなど、暴君のような振る舞いが目に付くようになります。曹叡は239年1月に崩御。享年35歳、または33歳となります。
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曹叡の父親の謎?曹丕の後継者になれなかった訳……
と、享年が二つあることに違和感を覚えた方もいるでしょう。
実は曹叡の母親、甄氏は嘗て袁紹の息子である袁煕に嫁いでおり、曹叡は曹丕の子ではなく袁煕の子であるとも言われていました。
このことから曹丕に疎まれ、また甄氏への愛情も薄れた曹丕は恨み言を言った彼女に死を命じ……どこかで聞いた話ですが、母親が死を賜ったことにより永らく曹叡は後継者となれなかったとされています。
ただ裴松之は明帝の享年は34が正しいと主張しており、こうなると父親は曹丕となり、何が正しいのかは判明していません。
因みに魏略によると曹叡は祖父の曹操に非常に可愛がられており、三代目はお前だとよく言われていたそうで……そんな曹操も、曹丕を二代目にするかどうかはずっと悩んでいた訳ですが。この辺り、何だか曹家の面倒で興味深い空気を感じますね、私だけでしょうか?
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曹叡の死因とは?身体面
さて曹叡の死因として考えられることとして、まず挙げられるのが病です。ここで晋署の曹叡についての一文を見てみますと
「曹叡は即位してより欲望をほしいままにし、幼女を我が物としたり人の妻を奪ったり、宮殿を壮大にしたりして農業や戦を阻害したりと、自分の感情の赴くままに欲望の限りを尽くした」
まあとんでもなく悪く書かれていますが、晋書ですので……注目するべきは、欲望の限りを尽くした、という一点。また曹叡は皇后を除け者にして宴を開いたという性格の悪い……コホン、一件もあることから、頻繁に酒色に耽っていたことは想像に難くないでしょう。
これらの不摂生は236年の陳羣が死去した頃から諫められる者がいなくなって始まったとのこともあり、今でいう生活習慣病が急速に進んでの急死が身体の面からは疑われると思います。また曹操に可愛がられていた曹叡は、若い頃から宴に列席させられていたともあるので……溺愛、冷遇、暴飲暴食……と良くないスパイラルで、身体を壊してしまったとは考えられないでしょうか?
どちらかというと毒殺されるような人物ではない(するメリットがある人物がそれほどいない)ことを考えると、若くしての死は、急速に進んだ生活習慣病を疑ってしまいますね。
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曹叡の死因とは?メンタル面
さてもう一つ、ここで次の後継者、曹芳を思い出してください。実は曹芳は曹叡の子供ではありません、何なら出自はあやふやと言うとんでもない存在です。というのも、曹叡は実は子供たちが殆ど早世しており、世継ぎと言える存在がいなかったのです。中には生まれて一か月で亡くなったという娘までいたことで、曹叡は深く悲しんで度が過ぎた葬儀を強行したともされているほどです。
早世する子供たち、晩年の側室大量増加、これらを並べて考えると、曹叡は実子に付いて渇望していたのではないか……とも考えることもできますね。また若い頃に父親に出生を疑われて母親を処刑される、更にはそれと殆ど同じ行為を晩年に行うなど、曹叡はメンタル面に危険な兆候が多く見られます。そして極めつけに病に陥った曹叡は巫女のいう神を信じて神水を求めるなど、宗教にも耽る兆候……この後、治らなかったので巫女は処刑されますが。
このことから、曹叡の死因はある種の「精神衰弱」、それによって進退にも影響を及ぼしての死……という一面もあり得るのではないでしょうか。若くして死んだと言える曹叡。その生涯を見ていくと、他殺よりも寧ろ自ら死に向かっていったような……そんな印象を受けてしまいますね。
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三国志ライター センのひとりごと
個人的に、曹叡の父親問題に関しては「曹操が可愛がっていた」ということを踏まえると、寧ろ曹丕で間違いなかったのではないかとも思います。曹丕からの冷遇は実父問題よりも……どちらかというと、曹操に可愛がられていることによる、我が子への大人げないを極めた嫉妬、とも取れないでしょうか。それと曹丕の性格も相まって、曹叡の人生に影を落としてしまった節が感じられますね。……曹叡の子が、一人でも残っていれば。
もしかしたら曹叡の死すら、何かしら変化があったのではないかと、考えずにはいられない筆者でした。どぼーん。
参考:魏書明帝紀 魏略
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