劉備(りゅうび)には関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)をはじめ趙雲(ちょううん)、馬超(ばちょう)、黄忠(こうちゅう)などの将軍や諸葛孔明、龐統(ほうとう)、法正(ほうせい)などの戦術と内政に詳しい人物など、多くの人材がいました。そんな劉備軍の猛将や行政官、軍師などの影に隠れてしまって、三国志の歴史に深く関与しながら忘れられている人物がいるのをご存知ですか。
その名を簡雍(かんよう)と言います。簡雍は趙雲よりも早く劉備に仕えており、義兄弟の二人(関羽・張飛)と同じくらい長い期間劉備に仕えており、簡雍がいなければ三国志が誕生しなかったかもしれないのです。
劉備と同郷の簡雍(かんよう)
簡雍は劉備と同じ生まれの幽州(ゆうしゅう)涿県(たくけん)出身の人です。若い頃から同郷の劉備と仲間としてつるんでおり、劉備が関羽・張飛と義兄弟の契りを結んだ頃、劉備の配下として仕えることになります。その後劉備・関羽・張飛と各地を転々とする日々を過ごすことになります。
簡雍は劉備が荊州(けいしゅう)の主・劉表(りゅうひょう)の客となった頃、官職をもらい各地の豪族や勢力へ使者として赴いたと正史三国志蜀書・簡雍伝に記載されており、外交官としてこの時期活躍していたのでしょう。その後劉備は孫権と同盟を結んで曹操軍を赤壁の地で大勝利して、荊州南部を領有することになります。
劉璋から気に入られる
簡雍は劉備が益州(えきしゅう)の主・劉璋(りゅうしょう)から張魯討伐の求めに応じて、劉備と一緒に益州へ向かう事になります。劉璋は劉備が益州へやってくると自ら劉備を出迎えて会見し、100日余りぶっ続けて宴会を続けたそうです。
劉璋が劉備が来てくれたことを非常に喜んでいたことがわかりますね。さて劉璋は劉備が連れてきた黄忠(こうちゅう)、魏延(ぎえん)達とも会見。劉璋は劉備の家臣の中で簡雍と気が合い、一日中酒を一緒に飲んで話を聞き、非常に気いるのでした。劉璋は100日に渡る宴会が終わると成都(せいと)へ帰還する事になり、簡雍との別れを惜しみながら劉備の元を去っていくのでした。さて劉備は劉璋と別れた後、張魯を討伐するのではなく益州の各地を攻撃して、自らの勢力を拡大していくのでした。
成都城を包囲
劉備軍は益州各地で勢力を拡大していき、成都城を包囲することに。劉備は自らの兵力だけでは成都城を陥落させることができないと考え、荊州に駐屯していた諸葛孔明や張飛、趙雲などの武将と多くの兵力を援軍として呼び寄せます。
諸葛孔明や張飛、趙雲達は劉備が攻略していない益州の土地を攻略しながら、成都城に駐屯している劉備軍と合流。こうして劉備軍の大軍が成都城に集結し、幾重にも成都城を包囲するのでした。劉璋は成都城に多くの兵糧や物資を溜め込み、劉璋の家臣達も劉備に徹底抗戦する構えを見せます。しかし劉璋は成都城に劉備軍が集結した数日後、降伏してしまうのでした。どうして劉璋は劉備に降伏することにしたのでしょうか。
簡雍の説得で成都城が開城
劉備は成都城に総攻撃を仕掛ける前、簡雍へ「劉璋に降伏するよう説得してきて」と命令を受けます。簡雍は「りょうかーい!!」と言って劉璋が籠城している成都城へ劉備の使者として、乗り込みます。簡雍は劉璋と会見すると酒を飲みながら世間話などを行い、劉備へ降伏するような内容を全くしませんでした。劉璋は簡雍の姿を見てなぜか劉備に降伏する決意をして、簡雍を車に乗せて劉備の本営へ向かい、降伏する旨を伝えます。劉備は簡雍のおかげで益州をゲットする事ができたのです。
三国志ライター黒田レンの独り言
もし簡雍がいなかったら劉備は成都城で劉璋軍と激しく戦うことになったでしょう。劉璋は成都城の防備をしっかりと固めていたので、劉備軍が強力であってもそう簡単に成都城を陥落させるのは難しいと言えるでしょう。
劉備軍が劉璋のこもる成都城の攻略に時間をかければ、曹操軍が漢中の張魯(ちょうろ)を攻略して、益州へ侵攻してきたかもしれません。また孫権が劉備の居ない荊州へ攻撃してくる可能性もゼロではありません。このように考えると簡雍が劉璋を説得して劉備へ降伏させた事は、三国時代を出現させたと言えるでしょう。より簡雍を持ち上げるとするならば、簡雍がいなくては三国志を後世に残す事ができなかったかもしれません。これは簡雍を持ち上げすぎでしょうか。
参考:ちくま文芸文庫 正史三国志蜀書 井波律子訳など
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