諸葛亮は蜀(221年~263年)の丞相です。魏(220年~265年)と死ぬまで戦ったことから後世から忠義の臣と言われています。
一方、周瑜は呉(222年~280年)の将軍であり、建安13年(208年)に「赤壁の戦い」で曹操を破った呉の最大の功労者です。この2人はライバルと言われますが史実では2人にライバルと言えるような交流はありません。
そこで今回は『三国志演義』での諸葛亮と周瑜の関係について解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
最初の出会い
建安13年(208年)に曹操が南下して呉を滅ぼそうと企みます。
当時の呉では降伏論と主戦論に分かれました。
諸葛亮はこの時、劉備の使者として孫権と魯粛のもとにいました。
孫権は「降伏しましょう!」「戦いましょう!」と毎日言われてダウン状態。
そこで亡くなった孫策の友人の周瑜に相談することに決めます。早速、相談を受けた周瑜は魯粛・諸葛亮と話し合いをします。
ここで周瑜は、民を巻き込まないために降伏することを主張しました。周瑜は思った以上に大人の対応です。すると諸葛亮は「曹操があっさりと帰ってくれるよい方法を私は知っています」と言いました。
周瑜と魯粛は「どんな方法ですか?」と尋ねます。
「周瑜殿、あたなの奥さんを曹操に差出して、NTRさせます。そしてあなたが涙を流せばよいだけです。すると、呉では『三国志演義』の薄い本が大量生産されて、国が発展するという・・・・・・」
スイマセン、途中から調子に乗ったので真面目にやります。
曹操が周瑜の妻の小喬を欲しがっていたのは事実です。
これを聞いた周瑜はプッツン。開戦に踏み切って、大勝利をします。
これは小説に直接書いていないから分からないのですけど、どうも諸葛亮は周瑜が激しい性格だと知っていたから、わざと怒らせて開戦に踏み切らせたという説があります。諸葛亮は周瑜をピエロのように操ってみせたのです。
周瑜死す
周瑜はその後も諸葛亮からザコ扱い。
チート丞相である諸葛亮の前に周瑜は次々とフルボッコ。
建安15年(210年)には蜀の劉璋の討伐に行こうとするのですけど、それも諸葛亮から読まれてしまい、徹底的に邪魔されます。
怒り狂った周瑜は前に曹仁との戦いで負った傷が悪化して、この世を去りました。享年36歳。最期の言葉は、「天はこの周瑜を生まれさせておきながら、どうして諸葛亮も生まれさせたんだ!」周瑜は死ぬまで諸葛亮のピエロです。
葬式でも馬鹿にされる周瑜
周瑜が死んだので諸葛亮は葬式に行きます。呉では将軍たちが「諸葛亮を殺して周瑜の敵を討とう」と騒ぎます。
だが、魯粛の説得と趙雲の護衛のおかげで諸葛亮に手が出されることはありません。諸葛亮は周瑜の棺桶の前で弔文を読みました。詳しい内容は飛ばしますが簡単に言うと「周瑜殿、最高っす!マジでリスペクトしてました」という感じ。
それを聞いた呉の人は感動の涙を流します。もちろん、これは諸葛亮の社交辞令です。呉との関係を悪化させないために周瑜の葬式を利用しただけです。葬式まで利用される哀れなピエロの周瑜でした。
三国志ライター 晃の独り言
以上が諸葛亮と周瑜の関係でした。
結局、『三国志演義』の諸葛亮からすれば周瑜は利用しやすいピエロの1人なのです。『三国志演義』の作者がここまで周瑜に冷たい理由は何か、全く理解できません。よほど正史『三国志』が面白くなかったのでしょうね。
ところで、周瑜の次に諸葛亮のピエロとなる人がいます。
それは司馬懿です。
※参考文献
・井波律子『三国志演義』(岩波新書 1994年)
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