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魯粛の後任は厳畯!知られざる[歴史]の真相

2024年8月16日


指揮を取る呂蒙

 

魯粛(ろしゅく)が病死した後、荊州の政略を担当したのは誰でしょうか?

 

策略が得意な呂蒙

 

大半の人がそれは呂蒙(りょもう)と答えると思います。しかし、その答えは不正解で実は厳畯(げんしゅん)という人物だったのです。ところが厳畯は孫権(そんけん)の指名を辞退、その後任として呂蒙が決定しました。一体、どうして厳畯は魯粛の後継者を拒否したのでしょうか?

 

 

監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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厳畯とはどんな人?

 

厳畯は字を曼才(まんさい)と言い、徐州彭城(ほうじょう)の出身です。多くの書物を保有し、詩経(しきょう)書経(しょけい)、三礼に精通、加えて説文解(せつもんかいじ)を好みました。戦乱を避けて江東に移住し、そこで、歩隲(ほしう)諸葛瑾(しょかつきん)と深く交流し高い名声を得ます。かたや丞相、かたや大将軍に昇進する二人と交際しているのですから厳畯もなかなかの人物であった事が見て取れます。

 

張昭(ポイント)

 

堅物の張昭(ちょうしょう)に見いだされて孫権に推挙され騎都尉(きとい)、従事中郎になります。真面目を絵に書いた人物で、慎み深いですが、これはという言う人物には、真心を持って接して善導したそうです。

 

 

厳畯は軍事に疎いとして魯粛の後任を辞退

魯粛亡くなり悲しむ孫権と孔明

 

217年、魯粛(ろしゅく)が死去すると孫権は、厳畯を抜擢して陸口(りくこう)に駐屯させ1万人の兵を与えました。陸口は対・対蜀の重要なポストで周瑜、魯粛、厳畯と受け継がれました。人々は厳畯の為に喜びましたが、当の厳畯はポストを辞退します。

 

「私は山出しの書生に過ぎず軍事の才能などまるでありません。その任にあらぬ者に任を与えれば、(とが)めと後悔に(まみ)れるでしょう何卒(なにとぞ)、ご容赦を願います」

 

こうして、厳畯は涙を流してポストを辞退したというのです。また厳畯伝を補う志林(しりん)という書物では、ある時に孫権が厳畯が馬に乗れるか試してみたところ鞍には(また)がれたものの、そのまま落ちてしまったとあります。孫権は厳畯の辞退を残念がり、後任として呂蒙を就任させ、人々は厳畯の分限を知る態度に賞賛を送ったというのです。

 

 

馬に乗れないから軍事に(うと)いとは言えない

 

しかし、この話には違和感がありありです。そもそも、厳畯のポストは騎都尉で皇帝を守る羽林騎(うりんき)を指揮する立場です。軍事の才能がない人間を騎都尉に任命するでしょうか?そんなとんまな人選を孫権が許すとも思えません。もう一つは、これ見よがしに挿入された志林の逸話です。厳畯は馬にも乗れず、落馬してしまったという話からは、これでは到底、戦場で指揮を取る事は出来ないという印象を受けるでしょう。

 

 

三国志時代の馬車

 

 

ですが、三国志の時代、馬に乗れる人はごく少数しかいませんでした。中国で乗馬が一般役人まで普及するのは(とう)の時代の事です。

 

伝言を伝えにくるも関羽に斬られる顔良

 

例えば袁紹(えんしょう)の配下だった顔良(がんりょう)は、白馬の戦いで麾蓋(きがい)の下で指揮をしそれを関羽(かんう)に発見され刺殺されたと書かれています。()とは指図旗、(がい)とは衣の覆いを意味していて顔良が天蓋付き馬車で指揮をして関羽に刺されたという意味なのです。猛将顔良は戦う時には騎乗せず、徒歩だったかも知れません。

 

孔明

 

孔明にしても馬に乗って指揮したというような描写はありません。実際には、顔良が利用したような指揮車で移動したのではないかと思います。つまり、馬に乗れないから指揮ができないというのは関係ないのです。また、世説新語に晋の時代に庾翼(ゆよく)という乗馬が得意な人がいて話を聞いた庾翼の妻の母がわざわざ城壁に登って見物したという話があります当時乗馬が出来る人は、それ位に珍しかったのです。

 

 

厳畯の辞退は孫権と打ち合わせた芝居?

孫権

 

ここで厳畯の辞退は、一種の八百長ではなかったか?という疑惑が湧きます。つまり、最初から孫権は呂蒙を後継に考えていたが無位無官からの叩き上げの呂蒙を抜擢すると名士層の風当たりが厳しくなるので一芝居を考えたのです。孫権は敢えて厳畯を指名して辞退させる事で

 

孫権

 

 

「こういう事だから呂蒙でしょうがないよね?

 

厳畯は馬にも乗れない体たらくだし・・」という風潮を作り出しておき厳畯には謙譲の美徳を与え、呂蒙は名士層の批判をかわせるようにあらかじめ手を打ったのです。

 

 

衛尉になった厳畯・・

 

厳畯は孫権が皇帝に即位すると衛尉に任命されています。こちらは九卿なのですが、またしても兵士を管轄する地位なのです。それも、3000人からの宮廷の兵士を指揮する立場でありやはりどうしても軍事の才能が御座いませんという厳畯の言葉が嘘臭く感じてしまってなりません。

 

厳畯の最終職は、尚書令ですが、これは、厳畯が親友の劉潁の罪を孫権の前で弁護して免職された後に許されて就いた地位で衛尉のポストはすでに埋まっていたので、尚書令という事になっただけかも知れません。本当に厳畯は軍事に疎かったのでしょうか?

 

 

三国志ライターkawausoの独り言

kawausoの独り言

 

では、逆にどうして孫権は呂蒙を陸口に駐屯させようとしたのでしょうか?

 

これは、孫呉で大きな勢力があった徐州閥をけん制する意図ではないかと思います。孫権の処世術は、政権内の異なる派閥を競争させて、自己の安全を図るもので夷陵の戦いでも子飼いの朱然を総司令官にせずに、敢えて陸遜を抜擢して勢力のバランスを取るようにしている節があります。

 

大体、権力の簒奪が起きるのは、君主が一方の勢力を偏重して使い反発した別勢力が逆襲するか、或いは君主が依存しきった勢力に取り込まれてしまうケースが大半なので孫権の判断は賢明かなと思いますけどね。

 

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kawauso

台湾より南、フィリピンよりは北の南の島出身、「はじめての三国志」の創業メンバーで古すぎる株。もう、葉っぱがボロボロなので抜く事は困難。本当は三国志より幕末が好きというのは公然のヒミツ。三国志は正史から入ったので、実は演義を書く方がずっと神経を使う天邪鬼。

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