人材の宝庫だった袁紹(えんしょう)陣営、しかし官渡の戦いで敗北した為に袁紹配下というだけで、不当に低い評価を受けている武将が多いのが現実です。
例えば、曹操(そうそう)に投降した張郃(ちょうこう)や辛毗(しんぴ)を見れば袁紹軍の層の厚さが分かります、そこで今回は無能の烙印を押された元曹操の同僚、淳于瓊(じゅんうけい)について解説します。
この記事の目次
豫洲潁川郡出身のエリート淳于瓊
淳于瓊は、軍師の産地として有名な豫洲潁川郡の出身です。中国では珍しい復姓で、淳于が姓で瓊は名、字は仲簡(ちゅうかん)です。彼は霊帝の時代に、黄巾賊のような賊の台頭に備えて組織された、皇帝直属の近衛兵、西園八校尉にも所属していました。
こちらは、万単位の軍隊でしたが、その中には、袁紹や曹操も含まれていました。つまり、この頃には、淳于瓊は、曹操や袁紹の同僚だったのです。また、西園八校尉には、黄巾賊討伐で手柄を立てた人間も含まれるので、淳于瓊は、それなりに戦術眼を持っていたと思われます。
董卓の時代に難を逃れ袁紹に仕える
しかし、霊帝の死後の混乱をついて、董卓(とうたく)が洛陽を陥れると、淳于瓊は、危険を逃れて洛陽を脱出、そのまま流れて袁紹の配下になります。まあ、袁紹は反董卓連合軍の盟主になるので、妥当な判断でしょう。やがて、反董卓連合軍が瓦解すると、淳于瓊は、そのまま袁紹に付き従います。
195年、長安で李傕(りかく)・郭汜(かくし)の支配から逃れた献帝(けんてい)が洛陽に入ると、袁紹軍の沮授(そじゅ)は、献帝を迎え入れるように進言しますが、郭図(かくと)と淳于瓊は反対しました。それにより、袁紹は献帝擁立を見送り曹操に奪われる結果になります。
これを見ると、淳于瓊は目先が効かない感じですが、彼は、それ以前に少帝に仕えており、董卓が擁立した献帝を認めない立場に立っていました。それは、袁紹も同じであり、郭図は、途中で変心しましたが、淳于瓊は変化しなかったようです。
郭図の讒言を切っ掛けに都督へと昇進
199年、公孫瓚(こうそんさん)を倒した袁紹は、いよいよ曹操と雌雄を決すべく動き出します。その頃、袁紹のブレーンだった田豊(でんぽう)は袁紹との方針の違いで投獄されており、袁紹軍は、同じくブレーンの沮授が監軍として全権を握っていました。しかし、ここで郭図が袁紹に讒言し、沮授に集中していた軍権は、郭図、淳于瓊、沮授で三分割され、淳于瓊は都督となります。
郭図の讒言の結果なので、あまり後味が良くないですが、淳于瓊にそれなりの能力がなければ、袁紹も淳于瓊に軍権を分けないで郭図と沮授で二分していたでしょうから、淳于瓊は能力を高く評価されていたとは言えると思います。
白馬・延津の戦いで敗北、運命の烏巣へ
こうして、都督となった淳于瓊は、郭図と顔良(がんりょう)と共に渡河し、白馬城に籠城する曹操軍の劉延(りゅうえん)を包囲します。しかし、白馬を落とすことが出来ないまま、曹操の陽動作戦に引っ掛かり、顔良が曹操軍に属していた関羽(かんう)に討ち取られ敗戦、次の延津の戦いでも、曹操軍の荀攸(じゅんゆう)が出した補給部隊の囮に、脳筋の文醜(ぶんしゅう)が引っ掛かり敗戦しました。
前哨戦に敗北した袁紹は十数万とも言われる本隊で南下し、官渡を包囲、曹操軍は籠城し持久戦に突入します。曹操軍に比較して物量で凌駕する袁紹は優勢ですが、一方で曹操軍の補給妨害も甚だしくなったので、袁紹は、バラバラだった食糧集積地を烏巣にまとめて、一括した食糧輸送を行います。そして、淳于瓊は都督として烏巣の守備を任されるのです。
淳于瓊の部隊は不十分だったが・・
淳于瓊は督将の眭元進(すいげんしん)騎督の韓莒子(かんきょし)、呂威璜(りょいこう)、趙叡(ちょうえい)の錚々たる四将を率いて烏巣に駐屯しました。え?横着しないで、4将について説明しろ・・分かりません地味なので史料がないです。
ただ、烏巣の守備隊は、満足な規模ではなかったようで、沮授は蒋奇(しょうき)を守備隊としてプラスするように袁紹に進言しますが、袁紹は、「これだけ広大な土地で、烏巣に食糧庫がある事など曹操には分かりはしない」と取り合おうとしませんでした。最初に言ってしまうと、この為に、淳于瓊の運命は決定します。
曹操、許攸の情報を元に烏巣を襲撃し淳于瓊を斬る
しかし、袁紹軍から投降した許攸(きょゆう)によって烏巣の食糧庫の位置は曹操に特定されます。これは千載一遇のチャンスと曹操は自ら軽騎兵5000を率い、袁紹軍に偽装して大軍の中を突っ走り、烏巣を襲撃しました。しかし、淳于瓊は冷静でした、
「守備兵は少ないとはいえ1万、曹操は5000、頑強に守れば防げない筈はないその間に本隊から救援がやってくるだろう・・」
こうして奮戦したので、曹操は思った以上の苦戦を強いられます。側近は、袁紹本隊からの援軍を心配し、「騎兵の半分を割いて迎撃に備えましょう」と口々に進言しますが、曹操は激怒し一喝しました。
「そんな事は敵の援軍の姿が見えてから言え!」
もちろん、援軍が見えてから準備したのでは間に合いません。曹操が、この奇襲に命を懸けている事を知った将兵は戦慄し、死地を切り開こうと、なお一層、奮戦しました。こうして、とうとう淳于瓊の軍を破り、4将と淳于瓊を斬り捨て援軍が到着する前に食糧庫を焼き払いました。この一戦で曹操は天下の覇者への道を確立したのです。
曹瞞伝に伝えられる淳于瓊の悲惨な最期
武帝紀では、防戦するも力及ばず戦死したと書かれる淳于瓊ですが、曹瞞(そうまん)伝では、別の悲惨な最期が記録されています。烏巣で淳于瓊の軍を破った曹操は、袁紹軍の士気を挫く為に、死んだ千余の敵兵の鼻を削ぎ、牛馬の舌を切り裂いて混ぜて箱に入れて袁紹の本陣に送り付けました。
まるで、キングダムの桓騎(かんき)ですが、この時、淳于瓊も鼻を削がれます。しかし、手当が早かったのか死なず、曹操の前に引きだされたのです。すると曹操は「おお、淳于仲簡よ、何故そのような事になった?」と質問しました。
これは、烏巣で敗戦した理由を聞いたのだとも、かつては西園八校尉として同僚だったのに、どうして逆賊などに落ちぶれた?という意味だとも言われています。しかし、淳于瓊は恨み言も媚びへつらいもせず「すべては、天運である、何も言う事などない」と毅然と答えます。曹操は、その潔さに感心して助命しようとしますが、ここで先に降伏した許攸が囁きました。
「淳于瓊は日中、鏡を見るたびに公への憎悪を募らせましょう」そう言われて気が変わった曹操は淳于瓊を斬首しました。
三国志ライター kawausoの独り言
烏巣では、手持ちの兵力でできる限りの防戦をした淳于瓊、、あまり政治的なセンスはないようですが、一介の武人としては、それなりの才能があったように思います。
袁紹が沮授の進言を受けいれていれば、負ける事も無かったでしょう。ただ、出ると負け軍師、郭図と同調した行動が多い事から、三国志演義では、無能で横暴な指揮官として扱われています。曹瞞伝では、鼻を削がれた上に、曹操に憐れみ半分で嘲笑されるなど三国志の登場人物でも、悲惨な最期を迎えていると言えますね。
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