はじめての三国志では、従兄弟といわれる袁術(えんじゅつ)の方が遥かに多く取り上げられ、その割りを食いイラストも、まだ一ケタしかない地味キャラ袁紹(えんしょう)。しかし、史実の袁紹は曹操(そうそう)と覇権を争い、一時は最も天下に近い男でした。そこで、今回は、波乱含みの袁紹軍の陣営をミエル化してみましょう。
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一族を各州の支配者に配置した袁紹
上記が袁紹の最盛期、西暦200年頃の組織のミエル化図になります。袁紹は、最初、渤海(ぼっかい)太守から始まり、次に臆病な韓馥(かんぷく)に脅しを掛けて、冀州牧を譲らせて支配地を拡大し、目の前に立ち塞がった黒山賊と公孫瓉(こうそんさん)を撃破し幽州、青州、并州を併合して、中華第一の実力者になりました。
袁紹は、広大な四州を、親族で統治する事にし、并州を甥の高幹(こうかん)へ、幽州の次男の袁煕(えんき)へ、青州を長子の袁譚(えんたん)に統治させます。
船頭多くして・・軍師と対立する袁紹
袁紹軍を代表する頭脳は、なんと二人もいて、田豊(でんぽう)と沮授(そじゅ)です。ところが、袁紹は、この2名の頭脳とギクシャクしていました。
田豊は曹操も恐れたような天才でしたが、彼は直言を憚らない頑固な人であり、心が狭い袁紹の不興を買っていました。大体、官渡の前哨戦である白馬の戦いを前に袁紹と田豊は意見対立を起こし怒った袁紹は、田豊を投獄してしまいました。つまり、官渡の戦いは、最初から田豊、タッチしていないのです。
でも、もう一人、沮授がいるじゃないかと思いますが、沮授は沮授で、元々は全軍を指揮する地位にありましたが、それを郭図(かくと)が「沮授に軍権を全てゆだねては危ないので分割しては?」と袁紹に讒言、恐れた袁紹は、軍権を郭図、淳于瓊(じゅんうけい)、沮授に分割しています。
また、沮授は、袁紹が長子の袁譚を青州刺史に任命する事に対して、「後々に禍を残す」と猛反対しますが、袁紹は押し切ります。こうして、沮授と袁紹の関係も微妙になります。沮授は、敗北まで様々な献策をしますが、一度猜疑心を持った袁紹は、なかなか聞き入れなくなり力は半減しました。
実力を伴わない上昇志向が袁紹軍を敗北に追い込む 許攸
許攸(きょゆう)は、田豊や沮授に比べると、袁紹に才能を買われていない人でした。一方で、許攸は、大変な上昇志向の持ち主で、どんなに高待遇でも、すぐに満足しなくなる貪欲な人、袁紹から見れば、ただでさえ才能を買ってないのに褒美だけはクレクレうるさいとなれば、すでに、ウザいだけの存在です。
なので、袁紹は許攸をガン無視するようになり、愛想が尽きた許攸は、袁紹軍の食糧集積所の場所という、とびっきりの大ニュースを持って曹操軍に降伏し、袁紹が敗北する決定的な原因を造りました。
二人揃って脳筋確定の顔良と文醜
袁紹軍の二枚看板は、顔良(がんりょう)と文醜(ぶんしゅう)でしたが、実はそれ以前には、麴義(きくぎ)という騎馬に長じた武将がいて、公孫瓉との界橋の戦いで袁紹軍を勝利に導きましたがこの頃には、思い上がって生意気という理由で袁紹に処刑されていました。
一方で顔良は、視野が狭く、イノシシ武者であると沮授は忠告していましたが、袁紹は聞き入れずに白馬の戦いに投入、曹操軍に直接戦いを仕掛けて、関羽に打ち取られて戦死しました。弟分の文醜は、次の延津の戦いで、曹操軍の囮の輜重部隊を追いかけて深入りし引き返す事も出来ず、包囲され戦死しています。どちらも、視野が狭いイノシシ武者は同じで脳筋武将と言っていいでしょう。
意に沿わない攻撃を任されてブチ切れ投降 張郃
袁紹は顔良と文醜を二枚看板としましたが、実際には、武勇でも戦術でも二人を上回ったのが張郃(ちょうこう)でした。ではどうして、袁紹は張郃を重く使わなかったのか?
単純に新参者で信頼されていなかっただけかも知れませんが、漢晋春秋によると、張郃は、田豊や沮授と同じく、曹操に対しては直接対決を避け、騎兵を使って撹乱する持久戦を説いたそうなので、袁紹に嫌われていたのかも知れません。
曹操軍が食糧集積地の烏巣を攻撃していると聞いた張郃は、軽騎兵で淳于瓊に援軍を出す事を提案しますが、郭図が反対し、それよりも曹操の本営官渡を叩くべきだと主張します。張郃は「曹操の本営の守りは堅く落ちない!」と反論しました。迷った袁紹は、中途半端に軍を分けて、烏巣へは軽騎兵を救援に、曹操の本陣には、重装歩兵を急行させますが、なにをどう思ったのか袁紹は、曹操の本営は落ちないと反対した張郃に、重装歩兵を与えて本営を攻めさせたのです。
張郃の予想通り、曹洪(そうこう)が守る官渡城は落ちず逆に烏巣は陥落します。馬鹿らしくなった張郃は同僚の高覧と共に曹操に降伏しました。
袁紹の死後、内輪もめを開始した 袁譚と袁尚
袁紹が一体的に軍を動かす為に、親族を配置した支配地の4州ですが、西暦202年に袁紹が後継者を決定しないままに死ぬと、すぐに、長子の袁譚と末子の袁尚(えんしょう)が対立し始めました。袁譚の配下には、郭図、辛評(しんひょう)、袁尚の配下には審配(しんぱい)と逢紀(ほうき)がいて、官渡の戦いではそれぞれが短期決戦を主張していましたが、袁紹の死後は、それぞれの主君を担いで、熾烈な権力闘争を開始します。
どちらかと言えば、幽州刺史の袁煕も、并州刺史の高幹も、袁尚サイドであり中でも高幹は、なかなか有能で、曹操と対抗する為に袁尚の命令で、関中の馬騰(ばとう)、韓遂(かんすい)と結び、匈奴(きょうど)の呼廚泉(こちゅうせん)とも同盟を取りつけて、一時は曹操を窮地に陥れますが、曹操配下の鐘繇(しょうよう)が、再び馬騰を説得して、曹操サイドに引き戻したので高幹は敗北。204年に鄴が落ち袁尚が袁煕と烏桓(うかん)を頼って落ちると主を失い宙ぶらりんになり曹操に降伏します。
袁尚と袁煕は、207年の烏桓討伐で後ろ盾を失い遼東に逃れた時に、曹操の威勢を恐れた公孫康(こうそんこう)に殺害されます。袁譚は、袁尚憎しで、曹操と協力したり離反したりでやはり没落、戦死しました。
三国志ライターkawausoの独り言
袁紹自慢の組織図は、あくまでも一世の英傑だった袁紹が当主だった時だけ有効でその各州の独立性の高さは、後継者争いを加速させただけでした。特に、袁尚の対抗馬である袁譚を青州刺史にした辺りが最悪で、彼に権力を与えなければ、後継者争いは、ここまでこじれず、袁譚は出奔するなりして、別の勢力を頼るしかなかったでしょう。
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