本日は三国志の武将の一人、まだまだ注目度が高いとは言えない人物でもある「張允」についてご紹介したいと思います。張允は三国志でも三国志演義でも割と序盤の内に出てくる武将であり、同時に退場も早くなります。
また三国志演義では扱いが良いとはいえない武将ですので、あまり印象には残っていない……と言う人もいるかもしれません。しかしだからこそ、今回はそんな張允について注目してもらいたい!あえての注目所をご紹介したいと思います。
この記事の目次
張允とはどのような人物か?
ではまずは張允はどのような人物か、基礎の知識からご紹介しましょう。張允は三国志に出てくる武将で、荊州の人物です。三国時代、というよりは位置としては後漢時代末期の武将、と言った方が正しいかもしれません。
そして荊州と言えば劉表ですが、張允はこの劉表の甥っ子になります。恐らく、劉表の姉か妹の子にあたるのではないかと言われていますが、劉表の姉妹については記録がないのではっきりしないのが惜しい所です。ただ、荊州の名家であることは間違いないでしょう。
劉表の一族としての立場
そんな張允はどのような存在かと言いますと、劉表さんちのビッグイベント、お家問題に関わってくる人物です。劉表は結果的に後継者をはっきりさせないままに亡くなってしまったため、蔡瑁によって次男の劉琮がプッシュされてしまうのですが、張允もまた劉琮派閥だったようで。
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劉表の後継者争いでの暗躍
劉表の見舞いに来た劉琦を追い返して後継者として立たせないように暗躍していた様子。この辺りが三国志演義で張允の扱いを悪くさせてしまったのではないかと思うのですが、それはまた後程。
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『三国志演義』における張允:無能な裏切り者の末路
さてでは三国志演義では張允はどのような人物かというと、大筋は変わりありません。蔡瑁と手を組んで劉琦を後継者にさせないように暗躍、劉琮を後継者にしようとする人物です。
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曹操への降伏と水軍大都督への抜擢
ただ三国志演義では曹操への降伏後も出番があり、曹操によって水軍の指揮を任されることになります。
しかし三江口の戦いでは孫権軍に敗北することになり、これはまずいと思ったのか同じく水軍を任された蔡瑁と共に軍の練度をあげようとするも、周瑜の策略によって曹操に疑われ、呼び出されるも何の言い訳もできなかったために処刑されてしまうという末路を遂げてしまうのです。
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周瑜の「離間の計」と悲惨な最期
ここで周瑜による張允、そして蔡瑁への計略についてもう少し詳しくお話ししましょう。周瑜が用いた策略は「離間の計」、ご存知、敵に不和をもたらす計略です。
これより少し前、孫権軍、周瑜の元に蔣幹という人物が訪れていました。この蔣幹、実は曹操の間者であり、孫権軍の情報を盗み出すべく侵入していたのです。
しかしそこは周瑜、これを逆手にとって敢えて偽の情報を掴ませることに。この偽の情報こそ、実は張允と蔡瑁は孫権軍に内通しているという情報でした。この情報で疑われ、更にろくに言い訳をすることもできず、張允と蔡瑁は処刑されてしまうことになったのです。
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張允は赤壁では死んでいない?歴史書の記述
ここで少し正史の記述に戻りますが、前述したように張允は赤壁の戦い以前に曹操によって処刑されています。では正史ではどうなったかというと、劉琮の降伏後は正史に張允の名はありません。何らかの理由で処された?それとも後の赤壁で?
と、疑問は残りますが、同時に下った蔡瑁だけでなく、縁者である劉琮もまた曹操により青州刺史に任ぜられ、同時に列侯に封ぜられただけでなく、後に諫議大夫・参同軍事となったように、かなりの厚遇を受けています。
このことを鑑みるに、記録に残すほどの厚遇はされていないにしろ、相応の大軍はされていたのではないか?というのが筆者の考えです。そもそも曹魏は人材が多いので多少の出世した所で名前は残らないだろうな……というちょっと悲しめの成分も混みですが……。
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演義でも実は「脅威」とされていた
さて三国志演義の話に戻りますが、三国志演義では張允は蔡瑁と合わせて周瑜に警戒されています。曹操に降った後に曹操軍が水軍の扱いに不慣れであること、そして荊州出身の蔡瑁は水軍指揮に長じているので水軍を任された……とあるのですが、その手腕については触れないまま、同時に張允もまた、ですね。
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張允の水軍指揮能力は本物だったのか考察
これを踏まえて張允の水軍指揮能力について本物だったのかどうか考察すると、「曹操が任せてもよいと判断した」「周瑜が警戒している」この二点からだけではあるものの、三国志演義では相応の能力を有していたのではないかと思います。
が。
同時にこれらは本編では発揮されないまま、更には最期は言い訳すらできないまま処刑される、主君の身内でもやりすぎた、しかしてそれ以上の本人の「無能」さが目立つのが張允の、そして蔡瑁の扱いであると言えるでしょう。ではどうしてそうなったのか。それを最後に考えてみましょう。
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なぜ「無能」のレッテルを貼られたのか
なぜ「無能」のレッテルを貼られたのか。まず考えられるのは専横とまではいきませんが、やややりたい放題が過ぎた、それでいて尚正史において「特に何の報復、及び天誅のようなできごとがない」ことが理由として考えられます。これは歴史ものを取り扱った創作ではまああり得る範囲なのですが……それ以上に、張允についてはもう一つ、扱いでこれが「気にかかる!」というポイントがありますね。
「蔡瑁といっしょくた」
これに尽きます。三国志演義では蔡瑁は「忠義心なんか欠片もない、自分に利益がある相手に媚びへつらう」とまで言われていますが、正史で蔡瑁は曹操にかなり厚遇されていますね。なので蔡瑁の結末はある意味、そういった鬱憤も含まれているのでは、と思うのですが……そこに、張允もいっしょくたに並べられた、という感想が張允に関しては強くあります。
「張允はなぜ無能とレッテルを張られたのか?」
そこには物語を動かす上で必要であったから、正史の記述が少ないから、何だかんだ蔡瑁といっしょくたにされたから……並べるだけでそうそうたるものを感じますが、張允はどうしてもこの厳しすぎる意見を出さざるを得ません。もう少し記述があれば、もっと言えば蔡瑁と一緒の出身地で同じような行動をしていなければ。張允という人物はどのような味付けをされたのか?これは張允に限らず、他の武将でも考察したい所ですね。
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三国志ライター センのひとりごと
張允は正史での記述が少なく、かといって今回述べたように、三国志演義でもある意味で記述が多い、とも言えない人物であると思います。ただ最後に述べたように「ではそうでなければどのように味付けをされたのか?」こういう考察をする入口ともなり得る武将であるとも思います。
例えば三英雄ではなく、袁紹や劉表がもっと注目されて今後、何らかの媒体で主役級の注目を得れば!張允ももっと別の味方、味わい方ができるようになると思うと、ちょっと面白いかもしれませんね。チャポーン。
参考:魏書劉表伝 魏武故事
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