小説『三国志演義』の主人公と言えば劉備玄徳、そしてその主人公の仇役であり、最大の悪役として描かれているのが曹操孟徳です。
しかし、正史『三国志』では、曹操は高く評価されており、一見歴史的な評価の元にあっては、彼が悪役扱いをされることは不当であるようにも思えます。
もちろん、『劉備が主人公だから、その敵である曹操は悪で当たり前』……と言ってしまえばそれまでかもしれませんが、
『三国志演義』という作品が成立した時代背景を読み解くと、その背景が見えてきます。
それには、日本人にも馴染みの深いある人物が大きく関わっていました。
この記事の目次
王朝の考え方について
正史『三国志』は晋の時代に成立したものです。
晋は司馬炎が魏の最後の皇帝である元帝から禅譲を受けて成立した王朝です。
古来、中国の思想に大きく影響を与えてきた儒教において、君主というものは神である天帝の命を受けてその地位に就いたものと考えられてきました。
つまり、王として即位したものはそれが天命であり、正統も不当もないことになります。
儒教では世襲ではない王位の交代は2種類あるよ
儒教では世襲ではない王位の交代を二種類に分けて規定しています。
ひとつは『禅譲』(ぜんじょう)。
これは在位中の君主が、自分の代わりに天命を受けたされる徳の高い人物に、平和的にその地位を譲り渡すことを意味し、もっとも理想的な王朝交代の形とされています。
もうひとつは『放伐』(ほうばつ)。
これは在位中の君主が天命を失ったとみなした者が、武力を持ってその地位を奪うことを指しています。
漢から晋に至る王朝交代をさかのぼって見ると、晋は魏より禅譲を受け、その魏は漢から禅譲を受けて成立しています。つまり漢から晋に至る王朝交代は本来儒教的には正統であり、かつ理想的なものであったわけです。
『三国志』が魏から禅譲を受けて成立した晋の立場を正統として成立している以上、当然魏は漢から禅譲を受けてできた王朝なのですから、当然それを否定するいわれはありません。
事実、『三国志演義』が成立するより以前の時代にあっては、魏は正統な漢の後継王朝であるとされ、
曹操も正当な評価を受けていたのです。
それではなぜ、『三国志演義』において、曹操はあのような悪役として描かれることになったのでしょうか?
『三国志演義』成立の背景を調べてみた
小説『三国志演義』は、明の時代、羅貫中という人物が書いた小説ですが、元々彼のオリジナルというわけではなく、
明の前の時代、宋や元の時代に成立していた民間伝承、特に元の時代に刊行された
『全相三国志平話』をベースにしたことが知られています。
この『三国志平話』においては、すでに劉備を正統、曹操を悪とする作風ができあがっていました。
注目すべきは『全相三国志平話』が成立した時代背景です。
当時の時代はどうなってたの?
宋から元の時代にかけ、中国の中心的な民族である漢民族は、北方の異民族の脅威にさらされていました。
宋の時代、北方の異民族であった女真族は宋の皇帝であった欽宗を拉致し、宋の北半分を征服して新たな王朝、『金』を成立させました。
しかし、金の急激な拡大政策はかえってその弱体化を招き、モンゴル民族によって南方に逃れていた宋王朝もろとも滅ぼされてしまいます。
モンゴル民族のよって成立した統一王朝は『元』と呼ばれました。
つまり、『三国志』の民間伝承が成立した時代、漢民族は異民族の支配を受ける状況にあったわけです。
この事が、後の『三国志演義』の作風に大きな影響を与えました。
漢民族は異民族の支配を受けていたのがきっかけ
『三国志演義』の主人公である劉備玄徳は漢王朝の末裔であるとされています。
すなわちそれは彼が正統な皇位継承権を持つ人物であることを意味します。
しかし劉備は、漢王朝には連なることのない人物、曹操の迫害を受け、辺境の地である蜀に追いやられてしまいます。
それでも、劉備は漢王朝の復興を為すため、自ら皇位に就いて魏の曹操と敵対し続けました。
『三国志演義』作中の劉備と曹操の関係を、そのベースとなった『三国志平話』が成立した時代背景に照らし合わすと、それが何を意味していたかが見えてきます。
すなわち、『三国志演義』に於ける劉備とは、本来中国の正統な支配者である漢民族を意味し、彼と敵対し迫害する曹操とは、漢民族を支配する異民族王朝、金と元のメタファーであったわけです。
念のためだけど三国志演義は正式な歴史書じゃないよ
もちろん『三国志演義』も『三国志平話』も、正式な歴史書ではありません。
民間に伝わる講話や伝承をひとつにまとめあげたモノです。
自然と民衆受けする物語として成立したことは想像に難くありません。
しかし、それだけで曹操への『悪役』のイメージが確定してしまうものでしょうか?
実は、学問的な立場から、魏ではなく蜀こそが、漢王朝を継ぐ正統な王朝であった主張した人物がいました。
魏ではなく蜀こそが漢王朝を継ぐ正統な王朝だよ!
朱子学創始者による『蜀漢正統論』
南宋の時代、朱熹(しゅき)という学者がいました。
彼は中国古代の春秋戦国時代から続く儒教を再構成したことで評価される人物であり、その教えは『朱子学』として知られています。
朱子学は鎌倉時代に日本に伝来し、江戸幕府によって正学と定められ、
さらには幕末に於いて天皇を中心とする『尊王論』を生み出す母体となって明治維新にも大きな影響を与えました。
この朱子学を興した朱熹が主張したのが、劉備玄徳を正統とする『蜀漢正統論』です。
蜀こそが漢王朝を継ぐ正統な王朝と主張した理由
朱熹は漢から魏への禅譲を時流には乗っていたかもしれないが、道義を踏まえたものではなかったと批判し、漢王朝の末裔とされた劉備玄徳こそが正統と主張したのです。
やがて朱子学が広まるにつれ、朱熹の『蜀漢正統論』も広く知られることになり、それが女真族やモンゴル民族に対する漢民族の憤懣と混ざり合って、『蜀=正統』、『魏=悪』という認識が民衆の間に定着していったことに、大きく影響したのは確かです。
もし、朱子学が漢民族が異民族の支配を受けていない時代に成立していたら、あるいは朱熹は『蜀漢正統論』を主張していなかった可能性も十分に考えられます。
(朱子学の元となった儒教では、禅譲は正統であり理想的な王朝交代であるわけですから)そうであったとするなら、私たちも今とは違った『三国志演義』を読むことになっていたかもしれません。
三国志演義を楽しみたかったら歴史背景を知るべし
歴史背景を知ることで、『三国志演義』はもっと面白くなる。
もちろん『三国志演義』はあくまでも小説、つまりエンターテイメントです。
小難しい理屈は抜きで楽しんでも、まったく問題ありません。
ただ、歴史を題材とした『三国志演義』は、その歴史背景を知っておくことで、より奥深く面白いものになることも間違いないでしょう。
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この記事を書いた人:石川克世
自己紹介:
小太郎さん(スキッパーキ オス 2歳)の下僕。
主食はスコッチウイスキーとコーヒーとセブンイレブンの野菜スティック。
朝風呂が生きがいの小原庄助的ダメ人間。ヲヤジ。