197年に袁術(えんじゅつ)は皇帝を自称しますが諸侯から猛反発をくらい、孤立し、最終的には誰からも見放され袁術「は、はちみつ水飲みたい……」部下「んなもんあるか!」というふうに残念な感じで死んでいくことになります。
この袁術の皇帝即位、『三国志演義』では孫策から伝国の玉璽を渡されたことがきっかけとなっていますが実は袁術はかなり初期のころから、「皇帝になりたい」という気配がぷんぷんしてくる人でした。
わしも皇帝になれるかな?
時はまだ董卓が政権を握っている頃にさかのぼります。連合軍に攻め込まれた董卓は、洛陽を捨てて長安に遷都しました。
その頃、董卓に対抗するために、漢室の血を引く劉虞(りゅうぐ)を皇帝に擁立しようという動きがありました。
袁紹からこの話を持ちかけられた袁術は「わしは董卓を滅ぼすことしか考えていない!」といって大反対をします。このとき人々は、「あいつ、もしや自分こそが、と帝位を狙っているんじゃないか?」と噂したそうです。
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よし、人材を集めよう
揚州で勢力を蓄えていたころ、袁術は旧知の陳珪(ちんけい)に手紙を書きます。秦の末期には、群雄が政権を奪い合って、力のあるものが天下を手にした。今もそれと似たような状況だ。わしが大事業を成し遂げるときには、ぜひとも君を腹心として迎えたい。
ただ手紙を書くだけならず、袁術は陳珪の次男、陳応(ちんおう)を人質にとります。このあたりに、袁術の人望のなさの理由があるような気がしてなりません。陳珪は袁術の手紙に対し、「今は秦末ほどひどくない状況ですから……」と断りの返事を書きました。
残念ながら、天下を取るための優秀な人材集めも困難を極めました。
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献帝も終わりだな。そろそろわしが……
献帝が長安を追われてさまよっていたころ、「漢王室落ちぶれたり!」と袁術は手をたたいて喜びます。ついに家臣たちに、自ら皇帝を名乗ろうと思っていると打ち明けるのです。初めはみんな、恐れ多いので下を向いて黙っていましたが一人の男がぽつりと発言しました。
「まだ……漢室は滅亡していませんが……」袁術はむっとしましたが、この場はその野心を引っ込めました。
天命に応えることにする
しかしその2年後、とうとう我慢できなくなりました。袁術はついに、天命を示す瑞兆が降りた、と言いだします。また、袁家は陳の舜帝(しゅんてい)の末裔を名乗っていたので五行思想で火徳にあたる漢の次に来るのは、土徳の袁家だと主張しました。
あくまで
「わし、みんなの期待に応えて皇帝になる」
と言ったのですが……誰もついてきませんでした。
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