袁術(えんじゅつ)の旗下で独立心が旺盛だった孫策(そんさく)は、
長江以南の曲阿に本拠を置く劉繇を破り、拠点を得ます。
袁術から独立するためにも勢力の拡大が必要だった孫策は大義名分など無視し、
正式な太守が治める呉郡や会稽郡を破竹の勢いで落としていきます。
単純に力によって征服していくのです。
揚州の群雄らはこぞって孫策に対抗しますが、
小覇王とも称される戦上手の孫策にどんどん潰され、吸収されていきました。
当然のように憎しみを一身に背負う形になった孫策。
しかし孫策はそんなことをまったく気にする素振りがありません。
さらなる領土拡大を目指していきます。
処刑されたもと呉郡太守・許貢
孫策に真っ向から対抗した呉郡太守・許貢。
彼は漢の皇帝から太守を任された正式な官徒です。
しかし孫策に任地を征服され、その非難の意見書を朝廷に送ったところ、
密書を孫策の配下に奪われて露見し、処刑されてしまいます。
孫策は血気に逸る性格で、抗う者に容赦がありません。
それが孫策の強さであり、またつけ込む隙になっていきます。
孫策の領土と隣接した広陵郡太守の陳登
孫策のライバル的存在に隣国広陵郡の太守、陳登(ちんとう)がいます。
名家である陳氏の一族であり、呂布、劉備、袁術、曹操の間で生き抜いてきた名将でもあります。
陳登は孫策がいる江南の支配をもくろんでいました。
そして孫策の背後を混乱させようと豪族の厳虎(厳白虎)や許貢の旧臣らと連携します。
ちなみに陳登は曹操と誼を通じており、孫策から孫権に代替わりした後も戦を続け、
曹操からの援軍を頼みにしたりしています。
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中原への進出を企む孫策
かつての主である袁術が滅亡し、その勢力を取り込んだ孫策は、さらに大胆な作戦に出ます。
曹操がいる中原への進出です。
曹操は八方に敵を迎えていましたが、その最大勢力である袁紹との決戦を間近に控えていました。
孫策はその隙を突いて一気に都である許都を落とそうと企んだのです。
曹操には南の孫策撃退まで兵を回す余裕がありません。その対応に苦心します。
懐柔策をとり、弟の娘を孫策の末弟の孫匡に嫁がせたり、実子である曹章の嫁に孫賁の娘を迎えます。
孫策の死を予言した郭嘉
神算の軍師として有名な曹操配下の郭嘉(かくか)は、苦心する曹操に進言します。
孫策は恨みをかいすぎたために自滅するというものです。
曹操は郭嘉の言葉にうなずき、北方の袁紹の対応に集中します。
郭嘉が推測だけでこのような進言をするとは思えません。
現実に実行されつつあったプロジェクトを事前に知っていたからだと思われます。
そこには郭嘉→陳登→許貢の旧臣というホットラインが浮かび上がってきます。
孫策暗殺の計画の裏には郭嘉の存在があったのではないでしょうか。
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烈士、許貢の旧臣
孫策は曹操に飼いならされる気などありませんでした。
機を見て兵をまとめ許都を突く準備を進めます。
背後にあった豪族・厳虎はすでに孫策に敗れていました。
ここで孫策に立ちふさがったのが、亡き許貢の息子とかつての食客でした。
彼らは孫策の隙を探し、野に隠れます。
そして孫策がひとりで馬を駆って外出した際に襲い掛かるのです。
その矢は孫策の頬に突き刺さったと云います。
呉書には「孫策の傷は医者の見立てによれば百日間安静にしていれば治るものだったが、
鏡に映る自らを見た孫策は激昂し傷が破れてその夜のうちに死んだ」とあります。
ちなみに許貢の息子や食客はその場で討ち取られています。
命を賭けた敵討ちは成功したのです。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
敵将の暗殺は常道手段のひとつです。
普通は旗本などが主君の身を常に警護するものですが、孫策は己の武勇に自信があったがために隙をつくってしまいました。
もちろんその猛勇ぶりなくして江南の支配はこんな短時間ではならなかったことでしょう。
長所と短所は裏表と云いますが、まさに孫策の気概と行動力は諸刃の剣でもあったのです。
だからこそ郭嘉はその暗殺に自信があったのかもしれません。
享年二十六歳。
まさに若すぎる英雄の死でした。
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