朱然(しゅぜん)は、字を義封といいます。
朱治の姉の子(つまり朱治から見ると甥っ子)で、元来の姓は施氏でした。
朱治は、まだ子供がなかったことから、朱然が年十三であったときに、
孫策(そんさく)に上言して、朱然を自分の跡継ぎにしたいと願い出ました。
孫策は、羊の肉と酒とをそなえ(=鄭重な礼で)、朱然を召し出させ、
朱然が呉(蘇州)にやって来ると、
孫策はあつい礼でもって、この養子縁組を祝ってやりました。
朱然、関羽を捕虜にする
朱然は孫権と一緒に勉強をしたことがあって、
二人の間には篤い恩義関係が結ばれていました。
山越民族が盛んに蜂起していたときのこと。
朱然は二千の兵を率いてその討伐を行い、
一か月ほどの間にこれを平定してしまいました。
曹操が濡須に軍を進めてくると、朱然は大塢(濡須塢)と三関屯(東興屯)との防備にあたり、
偏将軍という官位を授けられました。
つまり、何か功績があったのでしょうね。
また、関羽(かんう)の討伐にも参加し、本隊と別れて、
潘璋とともに臨沮まで軍を進めて関羽を捕虜にしました。
呂蒙(りょもう)に後任を託される
呂蒙(りょもう)の病気が危篤に陥ったとき、孫権が呂蒙に尋ねました。
「あなたが万が一、二度と病床を離れられぬとしたならば、誰にあとを継いでもらったらよいであろう。」
すると、呂蒙はこう答えました。
「朱然は決断力の点でも実行力の点でも十二分でございますから、
彼が仕事にあたれるかと愚考いたします。」
呂蒙が死去すると、孫権は、朱然に仮節を与え、
江陵に軍をとどめてその守りにあたらせました。
劉備を防ぐ
黄武元年(222)、劉備が兵を動員して宜都に攻撃をかけてくると、
朱然は、五千人を率いて、陸遜と力を合わせつつ劉備の進出を防ぎ止めました。
朱然は、別動隊となって劉備の先鋒に攻撃をかけてこれを打ち破り、
またその退路を遮断したので、劉備は打ち負かされて逃走しました。
朱然が、あの陸遜と並ぶほどの将軍であったということを示す話ですね。
江陵攻防戦
魏は、曹真、夏候尚、張コウらを遣って江陵の攻撃を命じ、
曹丕自身は宛まで軍を進めてそこに留まると、背後から加勢を行うことにしました。
孫権は、将軍の孫盛を派遣し、一万の兵を率いて、長江の中州(百里州)に配備をすると、
四方に防御壁をそなえた塢(とりで)を設けて、外側から朱然の応援をさせました。
張コウが兵を中州に渡して孫盛を攻めてくると、
孫盛は支えきれず、すぐさま退却をしてしまいました。
張コウは中州の塢をぶん取って立てこもり、朱然は、外部との連絡が絶たれてしまいました。
孫権は、更に潘璋や楊粲らを派遣して包囲を切り崩させようとしましたが、
魏の包囲は崩れませんでした。
朱然、ピンチ!
しかも、このころ、朱然の立てこもる江陵城中の兵士たちは、
多くが浮腫を患って、戦闘に耐えるものはわずか五千人にすぎませんでした。
曹真らは、土山を築き、地下道を掘り、やぐらを立てると、
城壁のすぐそばから矢を雨のように射かけました。
呉の将軍や士卒たちはみな顔色を失いましたが、朱然は悠然として畏れる色も見せずに、
軍吏や士卒たちを励まし、すきを窺って敵の二つの陣地を攻め破りました。
魏は、朱然を攻めて包囲することが半年にも及びましたが、
撤退する気色はありませんでした。
しかし、結局は、どうしても城を陥すことができぬまま、矛をおさめて軍を返しました。
この江陵攻防戦によって、朱然の名は敵国まで鳴り響きました。
朱然の人柄
と、まだまだ朱然の功績は尽きませんが、
その話はここまでにして、その人柄に話を移しましょう。
朱然は、身の丈は七尺(169cm)にも満たなかったのですが、
からっとした性格だったといいます。
内々の生活は身を修めて清潔なものであり、
飾りも軍器だけには施していましたが、それ以外は質素な用具を用いていました。
終日つつしんで職務に励み、いつも陣頭に立って、
緊急の場面に臨んでも心を動揺させることのない点では、誰にも真似できぬほどでした。
諸葛瑾の息子の諸葛融や歩シツの息子の歩協らも、
それぞれに父親の任を継いでいましたが、孫権は、特に朱然に彼らをまとめて総指揮にあたらせました。
朱然の最期
陸遜も死去してしまうと、功臣名将の中で生き残っているのは朱然だけとなり、
彼に対する篤い礼遇は他に並ぶものがありませんでした。
しかし、その朱然も病気のため二年間床に就き、いよいよ危篤となると、
孫権は、昼は彼のことを心配して食事を減らし、夜は寝ることもできずに、
宮廷からの使者と医薬や食物を彼の元にとどける役の者とがひきもきらず遣わされました。
朱然から病状を上聞する使者が遣わされるごとに、
孫権はその使者を引見し、みずから様子を尋ね、
御殿に通して酒食を賜い、送り出す時には布帛を授けました。
呉国創業の功臣たちが病気にかかった際、孫権が彼らのために心を使ったという点では、
呂蒙と凌統との場合が最も鄭重でしたが、朱然はそれに次ぐものでした。
……え!? これを超える厚遇って何したんですか孫権!?
それはそれで気になります……。
68歳で、赤鳥十二年(249)に朱然は死去しました。
孫権は、喪服をつけ哭礼を行い、それは心の籠ったものであったといいます。
なお、朱然の後は、息子の朱績(しゅせき)が継ぎました。
こうして、孫権の寵愛を受けた朱然という名将は、自らの人生に幕を閉じたのでした。
三国志ライター・秋斗のつぶやき
ということで、実は陸遜の次に大都督になっているのに
あまり有名でない朱然について紹介させてもらいました。
朱然の優秀っぷりはすごいですね。格好良いです。
孫権より年長の孫策以来の臣下たちがバタバタと倒れていった後の呉を、
一人で支えきった感があります。
陸遜は冷遇されていたからなあ……。
ところで、朱然の場合を上回る厚遇を受けたという話、
呂蒙はまだ分かるんですが、凌統はいまいち「???」といった感じがありますね。
何故彼は厚遇されたのでしょう。
それもいつか調べてみたいです。
私の関心はつい周瑜様が生きている間に向きがちなので、
こうして周瑜様亡き後の呉のことを知ることができたのも、個人的には収穫かなあ、と思っています。
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