宦官というと、しばしば中国歴史で悪役として、登場しますし、
実際に、政治を壟断して国を滅ぼした人間もいます。
ですが、宦官=ろくでもない人ではありません。
中国三千年の歴史には、大きな功績を残した立派な宦官がいるのです。
この記事の目次
まともな宦官1:司馬遷(しば・せん)
司馬遷(しば・せん)(BC135頃~BC86頃)
司馬遷とは、前漢時代の歴史家で歴史書、史記を書いた人物です。
史記は神話の時代から、前漢の武帝の時代までの歴史を書いたもので
司馬遷は、父の代からの歴史書の編纂を引き継いで完成させます。
しかし、司馬遷は、同僚で親交があった李陵(りりょう)が
匈奴に寝返ったという誤報が伝えられた時に、
ただ一人李陵をかばって武帝(ぶてい)の怒りを買い処罰を受けます。
その後、李陵は誤解が解けて奮闘が評価されましたが、
またしても誤報で李陵が匈奴の軍事顧問についていたという
証言が入ります。
司馬遷の数奇な人生がここから始まる
実は李緒(り・ちょ)という同じ姓の将軍が軍事顧問になっただけですが、
これで武帝の怒りは再燃し、李陵の一族は皆殺しになった上
司馬遷は、これを庇ったとして去勢刑である宮刑を宣告されます。
当時は、宮刑は死刑以下の侮辱的な刑罰であり、
宮刑を受けない変わりに、死刑を選ぶ道もありました。
ですが、司馬遷は、父の代からの念願である史記を完成させる
という事に執念を見せ、敢えて生き恥を曝して宮刑を受けて、
生命を全うする事を選びます。
史記の価値を高める
ところが運命とは分からないもので、宦官になった事により
彼は中書令(ちゅうしょれい)という宮廷の機密文書を読める立場に立ち、
貴重な資料を自由に閲覧できるようになります。
それが史記の歴史的な価値を高める事に役立ちました。
まともな宦官2:蔡倫(さい・りん)
蔡倫(50年~121年)は、後漢の明帝(めいてい)の時代に存在した宦官です。
西暦105年頃、蔡倫は、樹皮、麻クズ、魚網などを使って、
紙を考案し何度かの実験の末に実用に耐える紙を発明しました。
ただ、近年の研究では、蔡倫は、紙の発明者ではなく、
それまで存在した紙の技術を統合して改良した人物とされています。
それでも、質が悪かった紙を実用まで漕ぎつけたのは素晴らしい功績です。
蔡倫は高潔な性格と紙の改良の功績で宮廷でも出世の道を昇りますが、
皇位継承を巡る争いに巻き込まれて罪に問われ
用意された毒を飲んで死んでいます。
まともな宦官3:鄭和(てい・わ)(1371~1434)
鄭和は、最初の名前を馬三保(ま・さんぽ)と言う明初期の宦官です。
元々はアラブ人のイスラム教徒で、元が衰亡すると同時に攻め込んできた
明軍に捕えられ、少年だった馬三保は去勢されて、
当時は、王子だった後の永楽帝に宦官として与えられます。
しかし、靖難(せいなん)の変で永楽帝が北京の建文帝を倒して
帝位に就いた時に、馬三保は、手柄を立てて永楽帝によって
鄭の姓を与えられて、宦官では最高の階級である大監(たいかん)に任命されます。
永楽帝は、成立して間もない明王朝の威信を世界に示そうと
大船団を組織して、東アフリカまで遠征を命じます。
この時にその船団の提督を命じられたのが鄭和でした。
大航海は、7回にも及びましたが、身体が頑強な鄭和は、
この航海に耐え抜き、多くの発見と朝貢国を明国にもたらします。
まともな宦官4:王承恩(おう・しょうおん)
王承恩は、明時代の最末期に活躍した宦官です。
西暦1644年、明王朝は、李自成の乱で壊滅寸前になり、
最期の皇帝、崇禎帝は紫禁城で孤立していました。
すでに、明の官僚も宦官も崇禎帝を見限り、李自成に降伏する中で
ただ一人、王承恩だけは皇帝の側に立っていました。
「明はもうお仕舞いです、しかし、たった一人くらいは、
皇帝陛下のお世話をする者がいてもいい、、」
王承恩は、そう言って、李自成の賄賂を拒んだと言います。
彼は、皇帝の子供に、粗末な服を着せて城から逃がす手配をしたり
皇帝が殺しそこねた娘に手当を施して助けるなど、
かいがいしく働いた後に、首を吊って死んだ皇帝の横で、
自分も首を吊って果てました。
それは、あの世でも崇禎帝に仕えて世話をするつもりのような
皇帝という存在の召使いである宦官の原点を見るような最期でした。
まともな宦官5:曹騰(そう・とう)
曹騰(そう・とう)は、魏の武帝、曹操(そうそう)の祖父に当たる人物です。
「えっ?何で宦官なのに子孫がいるの」
まあ、それはおいおい分かるので、ちょっと読んで下さい。
曹騰は、生没年不詳ですが、西暦125年頃には、宦官として
皇太子、劉保(りゅうほ)の学友として抜擢されています。
これが、曹騰にとって幸運でした、この劉保は後に
順帝(じゅんてい)として即位し学友だった曹騰は、特別な寵愛を受けます。
極悪宦官なら、ここで皇帝の寵愛を利用して専横を行いますが、
曹騰は、全くそういう奢る所がなく、品行方正、
官位も中常侍(ちゅうじょうじ)に上り、さらに大長秋(だいちょうしゅう)
という宦官最高の職に上ります。
曹騰は、宮廷に仕える事30年余りでしたが、有能な人材を推挙する
のが趣味で多くの人材が引きあげられます。
※人材マニアの曹操に似ていますね(笑)
しかも偉い事に、曹騰は引き立てた彼等が出世しても恩着せがましく
タカるような事は一切しませんでした。
こんな風でしたので曹騰は、歴代皇帝に信頼され、
本来は、養子を取る事を禁止されていた宦官の身でありながら、
養子を取る事を許されたのです。
曹騰は喜び、故郷の沛国礁県から、夏候嵩(かこう・すう)という
親孝行な親戚の青年を見つけてこれを養子として財産を相続したのです。
夏候嵩は、曹氏を名乗って曹嵩(そう・すう)と名前を改めますが、
この曹嵩の息子こそ後の曹操なのでした。
曹操にとって曹騰の存在は必要不可欠だった
もし、曹騰がいなければ、曹操は金持ちでもなければ、
朝廷にもコネが無く、故郷の夏候惇や夏候淵と一緒に、
わいわい騒ぐ平凡な一生を送ったかも知れません。
極端に言えば、曹騰がいなければ三国志は、今よりもつまらない
物語になったかも知れませんね。
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