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王翦の一族はその後どうなるの?秦の中華統一に貢献した一族

2016年12月18日


 

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王翦

 

漫画キングダムでは、趙攻略の総大将として、桓騎(かんき)

楊端和(ようたんわ)を束ねる将軍・王翦(おうせん)

さらには、王翦の息子の王賁(おうほん)は信(しん)や

蒙恬(もうてん)と共に、鄴攻略の遊軍を任されるなど後継者の心配もありません。

では、この王翦の一族は、今後どうなるのでしょうか?

 

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監修者

ishihara masamitsu(石原 昌光)kawauso編集長

kawauso 編集長(石原 昌光)

「はじめての三国志」にライターとして参画後、歴史に関する深い知識を活かし活動する編集者・ライター。現在は、日本史から世界史まで幅広いジャンルの記事を1万本以上手がける編集長に。故郷沖縄の歴史に関する勉強会を開催するなどして地域を盛り上げる活動にも精力的に取り組んでいる。FM局FMコザやFMうるまにてラジオパーソナリティを務める他、紙媒体やwebメディアでの掲載多数。大手ゲーム事業の企画立案・監修やセミナーの講師を務めるなど活躍中。

コンテンツ制作責任者

おとぼけ

おとぼけ(田畑 雄貴)

PC関連プロダクトデザイン企業のEC運営を担当。並行してインテリア・雑貨のECを立ち上げ後、2014年2月「GMOインターネット株式会社」を通じて事業売却。その後、「はじめての三国志」を創設。現在はコンテンツ制作責任者として「わかるたのしさ」を実感して頂けることを大切にコンテンツ制作を行っている。キーワード設計からコンテンツ編集までを取り仕切るディレクションを担当。


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王翦は用心深く天寿を全うした

王翦

 

王翦の本格的なデビューは紀元前236年で、

まさに現在のキングダムの状態とドンピシャで重なります。

漫画では昔からのベテランに見えますが、そうではないようです。

王翦は今回の戦いで、鄴を含む趙の9城を落し、紀元前228年には、

李牧(りぼく)誅殺の3カ月後に、趙軍の趙怱(ちょうそう)や

顔聚(がんしゅ)を破り趙の首都、邯鄲を陥落させています。

 

信 キングダム

 

その後も燕を平定したり、李信(りしん)蒙恬(もうてん)

楚で大敗した後の始末をし、襲撃して来た楚の項燕(こうえん)の攻撃を

函谷関で防ぎ、さらに蒙武(もうぶ)と共に反撃して項燕を破り、

楚王になっていた昌平(しょうへい)君を敗死させ楚を滅ぼします。

 

しかし、王翦は、功積を立てても用心深く、あえて恩賞をねだるなどし、

俗物であるかのように見せ掛け、ついに始皇帝に疑われる事なく

そのまま天寿を全うしたようです。

 

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王賁は、戦国を統一する快挙を成し遂げる

王賁

 

王賁は、王翦の息子ですが、あまりキングダムでは絡みがありません。

というより情が感じられない不気味な父を憎んでさえいるように見えます。

さて、王賁ですが、紀元前226年の燕攻めが記録に見える初見です。

この時は王翦と親子で出陣して、燕王喜(き)を遼東に逃亡させます。

さらに翌年には、魏を攻めて、都大梁を水攻めにして包囲し

魏王假(か)を降伏させて魏を滅亡させています。

 

そして紀元前221年、李信、蒙恬と共に、最期に残った

斉の都、臨淄(りんし)を包囲して斉王建を降伏させ秦の天下統一を完成させます。

その功積で紀元前219年、通武侯に封じられます。

王賁がいつ頃亡くなったか分りませんが、息子の王離が活躍している事から、

趙高(ちょうこう)による功臣粛清は免れたのかも知れません。

 

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王離は章邯の配下として反秦連合軍に立ち向かう

王賁

 

王離は紀元前219年に武城侯に封じられます。

父は通武侯なので、王賁が死んだから後を継いだわけではなさそうです。

王離の活躍は、それから11年後、紀元前208年で、

陳勝・呉広の乱を鎮圧する為に章邯(しょうかん)の配下として

従軍したのが始まりです。

 

さらに陳勝が滅んだ後は、その残党の張耳(ちょうじ)と

趙王歇(あつ)が立て籠る鉅鹿城を章邯の命を受けて、

同僚の渉間(しょうかん)・蘇角(そかく)と共に包囲します。

総大将、章邯が補給線を守った事もあり鉅鹿城は陥落寸前に追い詰められました。

 

張耳の盟友である陳余(ちんよ)や各国は趙を救援しますが、

秦軍の勢いを目の当たりにし、遠巻きに陣を築いて見守るばかりであった

というので王離の武勇は父や祖父に劣らず優れていたのでしょう。

 

翌年、楚の項羽(こうう)の命を受けた当陽君・蒲将軍が趙に来援しますが、

この戦いも王離は補給線に守られて優位に進めます。

ところが、反秦連合軍の主将である項羽が登場すると補給線を断たれて

兵糧が不足、さらに章邯が項羽に撃破されて撤退してしまいます。

 

ここで、黙って鉅鹿城を見守っていた陳余や各国の連合軍が殺到、

同僚の渉間は自殺、蘇角は破れて戦死し、王離は捕虜になりました。

 

その後の王離がどうなったのかは分りません。

しかし記録がないという事は殺された可能性が高いでしょう。

 

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キングダムライターkawausoの独り言

kawauso 三国志

 

王離の子供には、王元(おうげん)、王威(おうい)がいて、

それぞれ落ち延び、王元が瑯邪(ろうや)王氏の祖、

王威が太原(たいげん)王氏の始祖になったと伝えられます。

 

瑯邪王氏は、東晋の時代の名門として、王祥(おうしょう)、王敦(おうとん)や

王導(おうどう)、王羲之(おうぎし)などの人物を輩出したそうですが、

これは後年の新唐書の記録で漢の時代の子孫と言われる王吉の伝がある漢書では、

王離との関係が触れられていないという事から信憑性には問題があるようです。

 

子孫の話は抜きにしても、王翦、王賁、王離と三代が優秀だったとは、

さすが王翦の一族だと言えますね。

 

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