三国志の一角を担う「呉」にも名将と呼ばれる男たちがいます。
また、他国の軍師にも匹敵する男たちもいました。
最も有名な名将といえば、やはり周瑜(しゅうゆ)が筆頭でしょう。
他にも魯粛(ろしゅく)、呂蒙(りょもう)などがあげられます。
実際に周瑜の後を継いだのが魯粛であり、魯粛の後を継いだのが呂蒙です。
そして呂蒙の後を継ぐことになったのが陸遜(りくそん)でした。
陸遜がその存在感を一番発揮したのが有名な「夷陵の戦い」でしょう。
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夷陵の戦い 初戦
西暦222年、蜀の劉備が義弟・関羽(かんう)の仇討ちのために大軍を率いて呉領に攻め寄せます。
劉備は配下に荊州生まれの臣が多く、荊州を失うと組織が瓦解する恐れもあったのです。
まさに荊州は劉備軍の生命線でした。
このとき呉の大都督に任命されたのが陸遜です。
劉備は数多くの砦を作り、さらに多くの屯営を設けています。
初戦ではまず呉班を前線させ、平地に陣を構え、呉軍に揺さぶりをかけます。
呉の将らは攻める好機と動き始めますが、陸遜が止めました。
陸遜の読み通り劉備は谷間に八千の兵を潜ませており、
呉軍が誘いに乗らないと見るや引き上げたのです。
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夷陵の戦い 中盤
陸遜は約半年間、じっと守りを固めて劉備の軍勢の隙をうかがっていました。
その間に約五百から六百里も敵の侵入を許していたといわれています。
劉備は長江の南岸に約四百里に渡り四十もの陣営を設営してこちらも守りを固めています。
我慢に我慢を重ねて耐えていた陸遜でしたが、
谷間に長蛇の陣を敷いている劉備の陣形の弱点を見抜き、火攻めをしました。
一気に呉は総攻撃を仕掛けて名だたる蜀将の首を刎ね、降伏させたのです。呉の大勝でした。
劉備は命からがら白帝城に逃げ込んだのです。
夷陵の戦い 終盤
追撃をして劉備を討ちたい呉の将らは孫権(そんけん)に上奏します。
徐盛(じょせい)や潘璋(はんしょう)、宋謙(そうけん)などです。
確かに劉備を生け捕りにするチャンスでもありましたが、陸遜は大局を見つめていました。
孫権に問われた陸遜は、魏が裏で呉の隙をうかがっていることを伝えます。
孫権が陸遜の考え通りに兵を引きあげさせると、
その後すぐに魏は三方向から国境を越えて攻め寄せてきました。
陸遜は局地戦にただ勝つだけの戦術家ではなく、常に冷静に国がどうあるべきかを考えていました。
その深謀のおかげで呉はこの危機的状況から脱することができたのです。
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逸を以て労を待つ
孫子よりも民衆に流通していたとされる「兵法三十六計」。
よく「三十六計、逃げるに如かず」なんてことを云いますが、この「兵法三十六計」は兵法のバイブル的存在です。
その中に、この「以逸待労」という作戦があります。
読んで字のごとく、すぐには戦わず、敵の疲弊と隙を待って攻撃し勝つというものです。
言うは易し行うは難し……弱気で待つばかりの新米の司令官に対し、
孫策以来の古参の宿将や王族らは反抗的で文句たらたらでした。
陸遜はときに剣に手をかけて殺意をもって攻めたがる諸将の意見を止めたと云われています。
しかし、陸遜が基本に忠実なこの「以逸待労」を徹底したことで、
呉は勝利することができたのです。
そこまでの陸遜の心労は計り知れなかったものがあります。
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三国志ライター ろひもと理穂の独り言
周瑜、魯粛、呂蒙亡き後、陸遜ほど兵法に精通していたものはいなかったのではないでしょうか。
きっちりとした兵法を確立していたからこそ、
戦の経験が豊富な劉備に大勝したのではないかと思います。
諸葛亮孔明や司馬懿とはまともに戦ったことがない陸遜ですが、
真正面から戦っても十分に勝機を見い出していたのではないでしょうか。
もし、戦っていたら……なんて想像するのも楽しいですね。
ちなみに陸遜の夷陵の戦いの戦略は、その後の中国軍隊の伝統的な戦法になっていったそうです。
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