顔良・文醜といった勇将を失った袁紹は怒り狂い、
今度こそ曹操と決着をつける!と意気込み、全軍を官渡の北の
陽武(ようぶ)へと布陣させました。
さすがの曹操も、袁紹の総力戦には苦戦し、官渡城に籠城します。
このとき袁紹は、奇策を思いつきます。
官渡城の城壁の前に土を盛って山を作り、その上に櫓(やぐら)を組んで
上から矢を射かけたのです。
それに対し曹操は、発石車(はっせきしゃ)を開発し、
石の塊を櫓にぶち当てて破壊するという対抗策をひねり出します。
せっかくの櫓が壊された袁紹は次なる策を思いつきます。
これが今回のテーマのモグラ作戦です。
空がダメなら地下から攻める(対公孫瓚)
実はこの官渡の戦いに先立つ199年、
袁紹が公孫瓚(こうそんさん)と決着をつけた易京(えきけい)の戦いで
モグラ作戦は大成功をおさめていました。
易京城というのは公孫瓚自らが
「兵法に100の櫓がある城は攻めるなとあるが、
わしのこの城は櫓が1000もある自慢の城じゃ」
というほど難攻不落の城でした。
袁紹は何度も何度も易京城を攻め続けましたが、攻略できないでいました。
そんな中、「そろそろ決着をつけねば」と奮起した袁紹は
雲梯(うんてい)という長いはしごや衝車(しょうしゃ)という城壁を壊す車など
兵器を駆使して易京城攻略に挑みます。
そして最後の最後で、モグラ作戦発動です。
城に向けて、地下道を掘り進めたのです。
易京城にある櫓の真下まで掘ると、支柱を立てて上に掘り進め、
櫓の土台の半分を空洞にしてしまったのです。
そして支柱に火をかけると、櫓は崩れ落ちました。
こうして公孫瓚は自らの敗北を悟り、自刃するのです。
空がダメなら地下から攻める(対曹操)
袁紹は官渡城にも易京城攻略に使ったモグラ作戦を開始します。
官渡城内まで地下道を掘り進めて行くのです。
しかし……、柳の下にいつもドジョウはいないのですね。
曹操は、城外に不自然な盛り土があるぞとすぐに気がつきます。
おそらく曹操のことですから、袁紹が易京城攻略に使った戦略などは
すべて承知していたのでしょう。
曹操は袁紹軍の掘った地下道に官渡の水を注ぎこみ、逆に水攻めを行います。
易京城では、火によって櫓を落とした袁紹が、
今度は水によって撃退されてしまうとは、興味深いですね。
敵は地下からやってくる
モグラ作戦……、城への地下道を掘るとか、労力が半端ないです。
しかしこの「地下道を掘って攻める」という発想、
中国の歴史の中では三国時代のみならず、かなり近代まで一般的であったようです。
北京観光へ行ったほとんどの人は故宮(紫禁城)を訪れることでしょう。
故宮は明清時代の皇帝の城で、幾度かの修復を重ね、非常に美しい姿を今も
残しています。
故宮の中で最も有名な場所と言えば、「太和殿(たいわでん)」です。
皇帝が中央の御座所に座り、目の前にドーンと広がる広大な前庭に
官たちが勢ぞろいするシーンなど、映画にもよく撮影される場所です。
ここの官たち立つ広場は磚(せん)が敷き詰められています。
磚は城壁などに使われる頑丈なレンガのことで、
1個30キログラムもするものさえあります。
こちらの広場にはなんと1億個以上の磚が、
地下七層にわたって埋められているそうです!
この理由は、賊や反逆者が地下を掘って皇城内に侵入するのを防ぐためです。
どれだけ地下から侵入するものが多いかということを示しているような
気がするエピソードです。
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この記事を書いた人:東方明珠
こんにちは。とうほう めいしゅです。
中国は上海の雰囲気が好きなので、テレビ塔の「トンファンミンジュ」を名乗っています。
もともと『水滸伝』の大ファンで、『三国志』に興味を持ったのは、アーケードゲーム「三国志大戦」がきっかけです。
当時はゲームセンターに通いつめました!
まだまだ中国史について勉強中ですが、精いっぱい面白いことを探してお伝えしたいと思っています。
どうぞよろしくお願いいたします。