軍神・関羽は呂布の乗っていた赤兎馬を操ります。曹操軍に乗りこなせる武将がいなかったことから、関羽の偉大さが推し量れます。
しかし、馬忠は赤兎馬に乗ることができませんでした。それはなぜでしょうか。関羽から馬忠へと赤兎馬が移った経緯とともに二人のその後について紹介していきます。
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関羽と赤兎馬
赤兎馬とは一日に千里(およそ4百キロ)を走ると言われる名馬。気性が荒く、乗りこなすのは至難の業でした。
もともと悪玉・董卓の馬でした。
戦略の一つとして呂布に送られ、以後、赤兎馬は呂布の代名詞となります。
やがて、呂布が曹操の手に落ちると赤兎馬も曹操の元に。しかし、ここで難題が浮かび上がります。名馬だけに乗りこなすのが難しく誰も赤兎馬を扱える武将が曹操陣営にいなかったのです。
ある日、関羽の気を引こうとした曹操。
プレゼントとして「赤兎馬」を贈ります。
破顔一笑した関羽は「これでいつでも兄者(劉備)の元へ駆けつけることができます」と言って、ありがたく赤兎馬を手にするのです。
関羽の最期
赤兎馬に跨って戦場を駆ける関羽。軍神・関羽にも「死」はやってきます。それが臨沮(現在の湖北省襄樊市南漳県)でした。南郡の地を失ったことを知った関羽は、すぐに南へと引き返します。
帰る途中、何度も使者を呂蒙の元へ派遣。呂蒙も彼の使者を厚くもてなします。また、自ら手紙を書いて持っていったという話もあるくらいです。使者が戻ってくると関羽の家族の無事が確認されます。
やがて、関羽の部下は士気が低下し、散り散りになると麦城へと引き上げます。同じ年の12月、関羽は数十人の騎馬隊を率いて脱走を図ります。ところが、10キロもいかないうちに敵に取り囲まれてしまいます。
潘璋配下の武将・馬忠が草むらに潜んでいたのです。長男の関平とともに関羽は捕らわれ、討ち取られます。
軍神・関羽の最期でした。孫権によって関羽の首は曹操の元に送られ、洛陽に葬られました。体は孫権が当陽に葬り、「当陽大王家」と呼ばれました。
さらに関羽の魂は故郷に帰り、成都に関羽のお墓が建てられたのです。のちの関羽廟です。
赤兎馬はどうやって死んだのか?
関羽を討ち取った呉の馬忠。報奨として関羽の愛馬・赤兎馬を賜ります。ところが赤兎馬は草をいっこうに食べてくれません。何も食べなければ、人間と同じように馬も死んでしまいます。
馬忠は「馬」という姓を持ちながら、赤兎馬に乗ることなく、死なせてしまうのです。関羽とともに赤兎馬も死を覚悟したのかもしれません。
馬忠のその後
関羽討伐で名を上げた馬忠。劉備が関羽を殺されたことに恨みを抱き、呉へと攻め入ってきます。
馬忠は将軍・潘璋に従い、出陣。劉備軍の弓の名手・黄忠に大ダメージを与えます。
ほどなく黄忠は劉備軍の陣営で息を引き取ります。ところが関興によって将軍・潘璋も殺されてしまうのです。馬忠は態勢を立て直し、敵の援軍として駆け付けた張苞を見事に撃退します。
後を率いた馬忠は、撤退命令を下します。しかし、武将の糜芳と傅士仁は江渚に残ると言って聞きません。理由は「将軍・潘璋の仇を討つ」というものでした。糜芳と傅士仁は結託して兵をそそのかし、馬忠は暗殺されます。
そして、馬忠の首は劉備の元へと送られるのでした。関羽だけでなく黄忠をも討伐した馬忠。それまで無名だっただけに劉備の喪失感は計り知れないものがあったのでしょう。
三国志ライター 上海くじらの独り言
関羽は蜀を代表する武将。軍神と謳われた関羽でしたが、最期はあっけない幕切れでした。しかし、魏では首を手厚く葬り、呉では体を、蜀では関羽廟を立てて魂を祀りました。
こうした各国の対応を見ても分かるように関羽は誰からも尊敬されていたことが分かります。関羽の死後1800年が経っても「関帝廟」は残っています。そうした経緯を見ても後世に関羽を慕う人が多かったのでしょう。
一方の馬忠は部下に裏切られて寝ているところを殺されてしまいます。もし、偉大な人物であれば、是が非でも将軍・潘璋の仇を取りにいったことでしょう。ひとえに裏切られたといっても、馬忠の行動に卑劣さがあったことは否めません。
関羽を殺したのも待ち伏せ作戦ですし、真の力を発揮したと言い難いのも事実。
ここは将軍・潘璋の仇を討つべし、という部下の気持ちを汲んであげるべきだったのかもしれません。関羽らを討伐した功績は称えられるものの自分たちのチームを統率するのは不得意だったようです。脚下照顧、身の回りから気を付けよとは呉の馬忠にあるような言葉です。
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