郭嘉は曹操の軍師です。建安13年(208年)の赤壁の戦いの直前に亡くなったので、曹操の魏王就任を見ることが出来ませんでした。郭嘉は生前、曹操に対して様々な提案をして功績を立てました。今回は正史『三国志』から郭嘉の功績を解説します。
※記事中の歴史上の人物のセリフは、現代の人に分かりやすく翻訳しています。
「郭嘉 功績」
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呂布をガンガン攻めろ!
建安3年(198年)に曹操は張繍討伐を打ち切って、呂布討伐のために下邳に向かいました。呂布は劉備を苦しめていましたが曹操が来ると敗北して下邳城に籠城します。
さすがに、戦闘が長引くと兵士も疲れてきたので曹操は撤退を考えました。しかし、郭嘉は荀攸と一緒に曹操を励まします。
「呂布は強い、軍師の陳宮は頭はいいです。ただし、彼らはそれだけです。呂布の気力が回復せず、陳宮の計略が定まらないうちにガンガン攻めましょう!」
励まされて元気が出た曹操は、呂布を攻めて討つことに成功しました。
孫策の死を予言する郭嘉!?
建安5年(200年)、曹操と袁紹が官渡で戦っいる時に孫策が曹操の留守のスキを狙って許昌を襲撃する計画を立てます。報告を受けた諸将は不安になりましたが郭嘉は冷静に分析。
「孫策は江東を平定したばかりですし、彼が殺した人々はいずれも地元の知識人ばかりです。だから、孫策を怨んで敵を討とうとする者もいるはずです。それなのに孫策は周囲に警護も置きません。私が見るところでは、孫策はつまらない男の手にかかって死ぬでしょう」
確かに孫策は袁術のもとで働いていた時から、呉郡の知識人に対して厳しく当たっています。具体例としては陸遜の親族である陸康、『春秋左氏伝』の研究家である高岱、道士の于吉、曹操側と密通していた呉郡太守の許貢です。
間もなく郭嘉の予言は的中します。孫策はしばらくすると、殺された許貢の食客により重傷を負わされて傷がもとでこの世を去りました。無論、孫策が計画していた許昌襲撃は頓挫です。
「漁夫の利作戦」を提案する郭嘉
建安7年(202年)に袁紹はこの世を去りました。曹操軍は袁紹軍を打ち破ったので勝利に乗じて攻め込むつもりでしたが郭嘉はストップをかけて、1つの提案をしました。
「袁紹は袁譚と袁尚を愛しており、嫡子(後継ぎ)を立てませんでした。郭図と逢紀が彼らの参謀になっていますが必ず争いが起きます。彼らは追い詰められれば助け合い、見逃せば争います。私たちは荊州の劉表を討伐するフリをして、彼らの争いを待ちましょう」
両者が争っている間に第三者が利益を得る・・・・・・要するに「漁夫の利」です。提案を聞いた曹操は「素晴らしい」と感動します。郭嘉の進言通りに曹操は、軍を南に向けると袁譚と袁尚は兄弟で争い始めました。
袁譚・袁尚の争いを聞いた曹操は引き返すと、すぐに袁譚と同盟を結んで袁尚を破りました。ただし、同盟を結んだ袁譚も建安9年(204年)に曹操に討たれました。
「兵は神速を貴ぶ」作戦
曹操は逃げた袁煕・袁尚兄弟と異民族の烏丸を討伐する予定でした。ところが、諸将は留守を狙って劉表が劉備に命じて許昌を狙ってくる可能性を恐れていました。
やはりここでも郭嘉は慌てません。
「曹操様は天下に対して威厳を放っています。しかし、烏丸は我々が遠くにいるので防備は設けていないでしょう。それに乗じて一気に攻撃して壊滅させましょう・・・・・・劉表は劉備を制御する才能が不足していることは自分でも分かっています。劉備を重用すれば制御出来ませんし、軽く扱えば働かない危険もあります。許昌を空けても大丈夫ですよ」
それを聞いて安心した曹操は袁煕・袁尚兄弟と烏丸討伐に赴いて大いに勝利を得ました。
三国志ライター 晃の独り言
こうして常に曹操の勝利に貢献してきた。曹操は「郭嘉だけが私の考えを分かってくれる」と言っていました。だが、河北平定終了の建安12年(207年)に38歳の若さでこの世を去りました。現在、「三国無双」シリーズで郭嘉は歳月がかかりましたが、メインキャラクターの1人となりました。
しかし、KOEIが18年前に出した「三国志戦記」というシミュレーションゲームでは、郭嘉はすでにメインキャラクターでした。筆者はこのゲームが滅茶苦茶好きになって、7年間もやりこんでいました。郭嘉は戦闘力が低かったので、鍛えないとゲーム中盤からかなりの苦戦を強いられます。
ちなみに筆者のお気に入りのキャラは魏続と宋憲。鍛えれば最強の武将になります。
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曹操や郭嘉が好きな人、自分はマイナー武将が好きという人もどんどんコメントお願いします。
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